2015年6月6日土曜日

若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり。『修証義』・第12節。

 若(も)し薄福(はくふく)少徳(しょうとく)の衆生(しゅじょう)は三宝(さんぼう)の名字(みょうじ)猶(な)お聞(き)き奉(たてまつ)らざるなり,何(いか)に況(いわん)や帰依(きえ)し奉(たてまつ)ることを得(え)んや,徒(いたず)らに所逼(しょひつ)を怖(おそ)れて山神(さんじん)鬼神(きじん)等(とう)に帰依(きえ)し或(あるい)は外道(げどう)の制多(せいた)に帰依(きえ)すること勿(なか)れ,彼(かれ)は其(その)帰依(きえ)に因(よ)りて衆苦(しゅく)を解脱すること無(な)し,早(はや)く仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し衆苦(しゅく)を解脱(げだつ)するのみに非(あら)ず菩提(ぼだい)を成就すべし。

 
この第12節も,二つほどのタームを除けば,あとは難しいことばもありませんので,比較的容易に理解できるのではないかとおもいます。ですから,そちらから調べてみたいとおもいます。

 まずは,「所逼(しょひつ)」。辞典で調べてみますと,「押しつけられること,強要されること,迫られること」とあります。逼迫(ひっぱく)の「逼」のある「所」と解釈すればいいようです。

 つぎは「制多」。こちらも調べてみますと「霊廟,塔廟,霊祠」とあります。そして,さらに「神聖視されている樹木,樹木の下の祠,石の塔,蟻塚,お堂など,そこになにか霊のようなものが宿っていそうなもの全般」を意味する,とあります。

 それではつづいて,最初から,センテンスごとの解釈を試みてみましょう。

 「若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり,何に況や帰依し奉ることを得んや」=もし,福が薄く,徳が少ない衆生は三宝(仏法僧)の名前すらまだ聞いたことがないのです。ましてや仏法僧の三宝に帰依するなどということができるわけがないのです。

 〔※ここで説かれている「福徳」については『正法眼蔵』のなかでも,いろいろのところで説かれていて,じつは,とても深い意味があります。が,ここでは,ごくふつうに「福徳」として受け止めておくことにしましょう。ただ,仏教的な意味での福徳であることだけは意識しておきましょう。ひとつだけ例を引いておきましょうか。たとえば,「よのつねに打坐する,福徳無量なり」=いつも坐禅に打ち込むことは,仏道に邁進することであるので,ここには福徳が限りなく備わっている,という具合です。〕

 「徒らに所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し,或は外道の制多に帰依すること勿れ」=わけもわからないままに不気味で威圧されるようなものに怯えて山神や鬼神などに帰依したり,仏教以外の霊廟に帰依してはならない。

 「彼は其帰依に因りて衆苦を解脱すること無し」=人間はその帰依の仕方によってもろもろの苦しみから解き放たれることはない。

 「早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて,衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし」=すみやかに仏法僧(仏とその教えとそれを説く僧)の三つの宝に帰依することによって,もろもろの苦しみから解き放たれるだけではなく,悟りの境地に到達するのです。

 以上の読解をつなげてみますと以下のとおりです。

 もし,福が薄く,徳が少ない衆生は三宝(仏法僧)の名前すらまだ聞いたことがないのです。ましてや仏法僧の三宝に帰依するなどということができるわけがないのです。わけがわからないままに不気味で威圧されるようなものに怯えて山神や鬼神などに帰依したり,仏教以外の霊廟に帰依してはならない。人間はその帰依の仕方によってもろもろの苦しみから解き放たれることはない。すみやかに仏法僧(仏とその教えとそれを説く僧)の三つの宝に帰依することによって,もろもろの苦しみから解き放たれるだけではなく,悟りの境地に到達するのです。

 第12節の読解は以上です。
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