2015年7月2日木曜日

いま,『女性自身』がかっこいい。堂々10ページに及ぶ「戦争法案」反対記事。女性の立場から。

 正直に書きます。わたしは週刊誌をバカにしていました。根も葉もないスキャンダルを,さもあったかのごとく書きつらね,記事の最後のところで「・・・・なのであろうか」と疑問符をつけるだけで,すべてを免罪してもらうというあざとさ。つまり,事実無根。単なる「噂」。それを「真相」などと銘打って,大見出しで読者の眼を惹きつける。

 それはそれで面白いとおもった時代もありました。火のないところに「煙」は立たない。だから,「噂」になるということは,それらしき情況がかもしだされつつあるに違いない,と。でもまあ,そんな「噂」話ばかりでは読者はリピーターとはならない。ついてはこない。飽きてしまう。それを防止するために,いくばくかの「真実」を織り込む。

 『女性自身』が,このところ頑張っていて,「戦争法案」反対の女性の声を反映させる記事を書いている。とりわけ,子をもつ母親はなんとしても子どもを戦争にだけはいかせたくない,という母親の気持を代弁する記事が激増している。しかも,ここにきて母親たちは黙ってはいない。ささやかながら立ち上がり,抗議行動にも参加するようになっている,と。

 そういう母親の主張もみごとにすくい上げている。母親としての母性をそのままストレートに受け止めている。自分の息子が,人を殺したり,殺されたりする人間にはなってほしくない,また,そんな社会に,そんな国家にしてはならない,と素直に寄り添う。そして,そこを基盤にした確固たる信念に支えられている。立派だ。

 この点,男は駄目だ。自分の息子を母親に預けっぱなしで平気だ。父親は,ひたすら仕事に打ち込み,そのエネルギーの大半を仕事に費やし,夜遅くに帰宅する,を繰り返す。そして,息子の成長ぶりを遠くから眺めているだけ。つまり,肌を触れ合う機会が圧倒的に少ない。だから,息子に対する父性が,母性のそれに追いつかない。つまり,「生きる」ことの根幹がどこかズレてしまっているのだ。そのつけがどんどん大きくなってきているようにおもう。

 その分,子育てに関する母親の分担は大きくなる。息子は,つねに,自分の身近に存在している。場合によっては,母親と息子は一心同体だ。日常的な喜怒哀楽をも共有する。度がすぎると「溺愛」に堕ちる。

 しかし,母の愛は海より深く,山よりも高い。だから,息子が母親に寄せる愛は「無条件」だ。理屈を超えている。この絆は磐石だ。

 「戦争法案」の国会での議論が空中戦に走りがちなのに対して,母親たちのそれは地に足がついている。まだ幼い男の子をもつ母親は,純粋に危機意識に目覚めている。だから,まずは「憲法9条」をなんとしても「守る」という立場に立つ。議論はそこからはじまる。どこかの海峡の機雷除去がうんたら・・・などという架空(仮設)の話はどうでもいい。眼の前にいる幼い息子が,将来,「戦争」という危険な場に送り込まれることのないようにしよう,とこの一点に集中し,その実現をひたすら願う。

 だから,女性たちの「戦争法案」に対する反応の仕方はきわめて「健全」だ。「生きる」ということをしっかりと視野に入れたところから疑問を立ち上げる。どんなに立派な抽象論をぶち上げることよりも,まずは,「生きる」ことを原点に据えた議論を優先させる。ここに,わたしも「信」をおきたい。

 その意味で,最近の『女性自身』の勇気ある報道に教えられることは多い。それに引き換え,男性が多く手にする週刊誌がだらしない。新聞が駄目ないまこそ,しっかりとした論調の記事を書くべきではないのか。「思考停止」「自発的隷従」にはまり込んでしまって目覚めようとはしない男性は多い。すなわち,「生きもの」であるはずの男性の「モノ化」現象だ。しかし,女性はどこまでも母性という「動物性」を護持している。だから「健全」なのだ。

 「戦争法案」はそんな「踏み絵」にもなっている。
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