2015年7月28日火曜日

此帰依仏法僧の功徳必ず感応道交する時成就するなり・・・・。『修証義』第14節。

此(この)帰依(きえ)仏法僧(ぶっぽうそう)の功徳(くどく)必(かなら)ず感応(かんのう)道交(どうこう)する時(とき)成就(じょうじゅ)するなり,設(たと)い天上(てんじょう)人間(にんげん)地獄(じごく)鬼畜(きちく)なりと雖(いえど)も感応(かんのう)道交(どうこう)すれば必(かなら)ず帰依(きえ)し奉(たてまつ)るなり,已(すで)に帰依(きえ)し奉(たてまつ)るが如(ごと)きは,生生(しょうじょう)世世(せせ)在在(ざいざい)処々(しょしょ)に増長(ぞうちょう)し必(かなら)ず積功(しゃくく)累徳(るいとく)し阿〇多羅三〇三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就するなり,知(し)るべし三帰(さんき)の功徳(くどく)其(そ)れ最尊(さいそん)最上(さいじょう)甚深(じんじん)不可思議(ふかしぎ)なりということ世尊(せそん)已(すで)に証明(しょうみょう)しまします,衆生(しゅじょう)当(まさ)に信受(しんじゅ)すべし


 ここでは「感応道交」という,ふだん眼にしない仏教用語が登場しています。しかし,この文字をじっと眺めていますと,なんとなくこんな意味ではないかなというイメージが湧いてきます。このイメージ・トレーニングはとても大事だとおもいます。とくに,道元さんは,漢語をそのまま日本語に導入しているばかりでなく,その漢語をひとひねりもふたひねりもして,独自の意味を付与させたりしています。しかも,それについてとくに説明をしたりもしません。ですので,まずは,そのまま道元さんの用語を受け止めておいて,あれこれ想像してみることが大事だとおもいます。また,道元さんはそのように読むことを,むしろ,強要しているようにおもいます。言ってみれば,道元さん特有のことば遊びが随所に登場しますし,その「遊び」のなかに,じつは深い真理が隠されているといっても過言ではないからです。

 こんな文章を書いてしまいますと,お前はいったいなにを考えているのか,道元さんのことがわかっていないのではないか,とお叱りを受けるかもしれません。しかし,その叱咤をしっかりと受け止めた上で,さらに,つぎのように言っておきたいとおもいます。

 道元さんは,漢語と日本語との区別をほとんど無視して,自由自在にこの二つの言語の間を往来させています。しかも,漢語にしろ,日本語にしろ,そのことばの持っている固定化した概念をつぎつぎに壊していきます。そして,それらのことばに新しい生命を吹き込もうと必死に創意・工夫を加えていきます。しかも,みずから概念崩しをし,新しい生命を吹き込んだ,そのことばすら,さらにその概念を崩し,もっと深い概念をそこから読み取ろうと,絶えることのない努力を積み重ねていきます。それが,道元さんのいう「修行」であり,「悟り」であるということです。

 このことを一語で現したことばが「修証一等」ということばです。そして,このことばこそが道元さんの主著である『正法眼蔵』を貫くきわめて重要な柱となっていることを,ここではあえて指摘しておきたいとおもいます。

 なぜ,こんなことを書くのかといえば,ここに登場する「感応道交」ということばもまた,道元さんの思考を受け止める上できわめて重要な概念のひとつであるからです。つまり,「修証一等」と同じように「感応道交」もまた,それが成就する時節はつぎつぎに進化していくからです。このことがわかっていれば,この第14節は,問題なく理解できるとおもいます。

 感応道交とは,「感」はわたしたち衆生が仏の威力,慈悲力などを感じとること,「応」は,衆生の願いや祈りに対して仏が応答すること,「道交」とは,この二つが互いに交信・共鳴すること。したがって,感応道交とは,仏と衆生とがひとつになって共振・共鳴することを意味します。

 ですから,冒頭の「此帰依仏法僧の功徳必ず感応道交する時成就するなり」は,文字どおり読んだとおりの意味を示しています。すなわち,仏法僧に帰依し祈りつづける功徳は,かならず仏と一体化して感応道交するときに成就されますよ,というわけです。

 たとえそれが,天上界であろうとも,あるいは人間界であろうとも,地獄界,鬼畜界であろうとも,仏と感応道交すればかならず仏法僧の三宝に帰依することができるのですよ,と説いています。

 ですから,すでに三宝に帰依している人たちは,生まれ変わり死に変わりして未来永劫の時間が経ても,そして,その場所が変化しようとも,その功徳は積み重ねられていき,アノクタラサンミャクサンボダイの最高の正しい悟りに到達することができるのです。わたしたちがわきまえ,知らねばならないことは,仏法僧の三宝に帰依する功徳こそがもっとも尊く,もっとも上等なものであるということ,しかも,それははなはだ不思議なものであり,人間的思惟の範疇を超え出たところのものであるということです。このことをお釈迦様がすでに証明されているのですから,わたしたち衆生はそれを確信して,「信受」する以外にはないのです。

 というのが,第14節での,わたしの読解です。
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