2015年8月14日金曜日

遠い日の思い出。8月15日の玉音放送とその前後の記憶。

 1945年8月15日。わたしは国民学校2年生。夏休みで,毎日のように,疎開先の寺の広庭にむしろを敷いて,従姉妹たちとままごと遊びのようなことをして過ごしていた。時折,艦載機が低空飛行をして,バリバリバリと銃を乱射して通過していく。そのたびに,震え上がって庫裡のなかに逃げ込む。それさえなければ,なんとものどかな渥美半島(愛知県)の田舎の寺での,こころの温かい人たちに囲まれた楽しい生活だった。

 疎開するまでは,豊橋市の郊外に住み,東田国民学校に通っていた。1年生の夏には,干し草をつくって学校に提出する宿題に追われていた。毎日のように,午前中は近くの朝倉川の土手にでかけ,草を刈り,大きな束にして担いで帰るのが日課だった。そして,家の猫の額ほどの庭に草を干して,夕方になるとそれを束ねて,翌日,また干すを繰り返す。その草の量は,毎日,少しずつ増えていく。しかし,完全に乾いた干し草になると,ほんのわずかなものになってしまう。日々の労働の割には成果があがっていないような,むなしさも伴っていた。

 夏休み中の登校日ごとに,これを学校に提出。これらは,軍馬のえさになる,と教えられた。軍国少年は,ただひたすらお国のためにと祈りながら,必死で頑張った。しかし,戦況は日に日に悪化していたようで(子どもにはなにもわからなかった),1943年の秋口からは,戦勝祈願と称して,近くの神社に早朝の参拝が日課に加わった。寒い冬の朝などは,霜焼けで赤く腫れ上がった手が痛かったことを記憶している。

 1944年の6月には,豊橋市は空襲があって,火の海のなかを逃げまどいながら,いつも参拝している神社までたどりついた。そして,その脇を流れる小川の中に身を沈め,一夜を明かした。そのまわりには大勢の人たちが,同じようにして一夜を明かしていたことを朝になって知る。みんな,声も出さずに押し黙っていたのだ。

 夜が明けて,みんなが歩きはじめたので,それにつられるようにして家路についた。市街に入ると,すぐに目にしたのが,辺り一面の焼け野原。当時としては珍しい鉄筋コンクリートの細長い建物(ヌカビルと呼んでいた)が立っているだけで,あとは,全部,焼け野原。しばらく,呆然として眺めていたようにおもう。そして,歩きはじめると,あちこちに逃げおくれた人の死体が転がっている。なかには,焼夷弾の直撃に会ったのか,後頭部が半分なくなっている女の人の死体も目に飛び込んでくる。思わず足がすくんでしまって動けなくなる。

 これ以上のことは,ここに書くに忍びない。思い出したくない,とからだが拒否する。必死になって記憶から消去しようとするが,逆に消えるものでもない。より,鮮明な印象となって蘇ってくる。場合によっては,現実以上に印象だけが増幅して,妄想となって肥大していくようだ。しかし,それがわたしにとっての「真実」となる。記憶とは恐ろしいものだ。

 こんな経験のあと,母の実家である渥美半島の寺に疎開する。祖父はすでに隠居していたので,大伯父・大伯母の心温まる好意に支えられて,わたしたちは束の間の安寧を得る。空襲警報と艦砲射撃と艦載機の襲撃さえなければ,まことにのどかな田舎の暮らしが日常を支配していた。

 そうして迎えたのが,1945年8月15日の玉音放送だ。いまでいえばお盆のお中日だが,当時は,旧暦でお盆が行われていたので,なにごともない平日だった。突然,広庭のむしろの上で遊んでいた子どもたちに,庫裡から声がかかって呼び集められた。これから大事な放送があるので,しっかり聞きなさいと言われ,小さなラジオの前に正座させられた。

 それが玉音放送だった。国民学校2年生の子どもにはなんのことか,さっぱりわからなかった。それでも,「耐えがたきを耐え,忍びがたきを忍び・・・」というフレーズだけは記憶に残っている。いや,これも,あとで記憶したことを,このときに記憶した,と勘違いしているのかもしれない。なにか,重大な放送であったらしい,ということだけはわかったような気がする。

 放送のあと,「戦争が終わった」と教えられ,なんとなくホッとしたことを覚えている。もっとも恐ろしくて怯えていた,空襲警報と艦砲射撃と艦載機の乱射から解放される,という安堵からくるものだったのだろう。

 こころの平安はかろうじて取り戻したものの,予期せぬ敗戦後の苦難が待ち構えていた。この記憶もまた,あまりたどりたくはない,わたしの記憶の中に封印されていることばかりだ。しかし,いつかは語っておかなくてはいけないことなのだろう,とこころのどこかでは考えている。そのときを待つことにしよう。

 ことしもまた,8月15日はやってくる。しかも,「70年目」の節目の年として。
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