2015年8月18日火曜日

お盆・雑感。65年前の記憶。

 ことしもお盆が過ぎ去って行った。最近では,お盆だからといって特別のことがあるわけではない。むしろ,なにごともなく平凡な日常のなかに埋没してしまっている。

 本来ならば,両親のお墓参りに行かなくては・・・とおもう。しかし,気がついてみたら,もう,すでに自分のからだを移動させることすらままならない年齢になっている。おまけに,去年,ことしと二度にわたって大きな手術を受けてもいて,ますます,からだがままならなくなってきている。だから,お盆どころの話ではない,というのが正直なところ。

 それでも,やはり,お盆となると,気持は落ち着かない。何回も,お墓参りを考えた。しかし,ことしの猛暑に圧倒されて二の足を踏むことになった。そして,とうとうなにもしないままお盆が過ぎて行った。その間,さまざまなことを思い浮かべていた。

 とりわけ,遠い子どものころの記憶をたどりながら・・・。

 わたしは田舎の小さな禅寺で育った。いわゆる寺の小僧だった。村の人たちからもそのように扱われたし,子どもたちの間でも「寺の子」として特別な目でみられていた。いいことをすれば寺の子だから当たり前。悪いことをすれば寺の子なのに,と非難された。いずれにしても割に合わないとおもいながら子ども時代をすごした。

 それだけではない。寺の小僧にとってお盆は特別な行事だった。夏休みに入るとすぐに寺の境内の掃除にとりかかる。父も僧侶専業ではなく教員をしていたので,夏休みを待って,お盆の準備にとりかかる。

 なにをするのか。
 
 お墓の掃除・・・雑草を抜いて,落ち葉を拾う。
 広庭の掃除・・・こちらの掃き掃除は日常的に行っているが,雑草を抜き,花畑などの柵の取り替え,など。
 寺の境内を囲んでいる細葉垣根の刈り込み・・・たこ糸を張って,綺麗に仕上げるには相当の熟練を要する。
 本堂の縁の下の掃除・・・こちらは,もっぱら小さい子ども,すなわち,三男のわたしの仕事。
 仏具磨き・・・真鍮製の仏具を磨き砂でていねいに擦って磨きあげる。時間をかけて,綺麗に仕上げるには相当の根気が必要。
 本堂の蜘蛛の巣払い,仏壇の掃除・・・ふだんはやらないので,ことのほか丁寧にやる。
 法事用に備えてある食器類洗い・・・こちらも年に一回の仕事。
 台所の竈まわりの掃除・・・三つの釜を同時に炊きあげることのできる大きなものが広い台所の三和土にでんと鎮座している。道元さんの『赴粥飯法』(ふしゅくはんぽう)にもあるように,食事の支度は禅寺では重要な修行のひとつ。これを担当する僧の地位も高い。燃料はもっぱら枯れ枝を掻き集めてきて,山のように積んである。ときには,薪割りした立派なものも置かれる。つまり,寺の心臓部に相当するところ。だから,ことのほか綺麗にすることが求められる。
 便所の掃除・・・お客さん用と自分たち用の二カ所。外にも一カ所。これをだれが担当するかで,毎年,揉めた。最後はジャンケン。
 坪庭の掃除・・・ここは寺の美学が集約された場なので,何回もチェックを受けて,ようやくOKがもらえるやっかいな場。
 施餓鬼台の設置・・・本堂の正面入口の階段のところに施餓鬼台を設置して,檀家から届けられるお供えを飾る。
 その他・・・鶏小屋,うさぎ箱,台所の流し場の排水溝,などなど。

 いま,すんなりと思い出せるものだけでこれだけある。もっと,丁寧に拾っていけば,まだまだ仕事はでてくる。が,まずはこれだけのことは,毎年,繰り返し行われてきたことだ。

 これらの仕事を,夏休みに入ってから8月12日までにやり終えなくてはならない。13日には「迎え火」をするために檀家の人たちがお墓にやってくる。それまでに,すべての準備が完了していなくてはならない。期限が切られているので,最後は必死の追い込みとなる。

 8月15日の法会を終えて,16日の精霊流しをして,お盆の行事は終わる。

 暑い盛りの,藪蚊に刺されながらの仕事だった。主として,午前中に外の仕事を終え,昼寝をして,夕刻からは,建物の中での仕事になることが多かった。この昼寝の間に,親の目を盗んで,友だちと川に泳ぎに行くのが唯一の楽しみだった。ほとんどバレていたが,でも,時間までに帰っていれば,とりたててとがめられることもなかった。友だちたちは川で遊んでいるのに,ひとりだけ早めに引き上げるには決断力が必要だった。時計もなにもない。経過した時間を勘で推定する以外には方法はない。ときおり,時間を忘れて遊んでしまったときには,雷が落ちた。このときは,覚悟して,いつもより多くの仕事をするよう努力したものだ。

 いまから65年前の話である。ちょうど,小学校6年生。

 お盆が終わってから,ほんとうの「夏休み」がやってきた。残りは10日余り。それまでに,宿題を片づけなくてはならない。とりわけ,工作と図画には時間がかかった。どちらも嫌いではなかったので,楽しいのだが,その間に友だちとも遊ばなくてはならない。こちらもまた大事な付き合いだった。しかも,その遊びの中心は「野球」だった。だから,自分のポジション(キャッチャー)を守るためにも,休むわけにはいかない。

 時間がいくらあっても足りないほどだったのに,いま,思い返すと「時間」は止まっていた,そんな印象が強い。たくさんのことをこなす充実した時間をすごしていた,とおもう。

 そんなことを思い浮かべながら,ことしもお盆をやりすごしてしまった。

 さて,来年こそはお墓参りに行こう。いまから決めておかないと動けない,と自分に言い聞かせながら・・・・。
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