2015年11月21日土曜日

末期癌を生きる。そのからだとこころ。

 2014年2月に初発の癌がみつかり(胃癌),切除手術。つづいて2015年7月に肝臓への転移がみつかり,切除手術。最初のときが,すでにステージ3のCという診断。転移した段階で,ステージ4に突入。すなわち,末期癌患者の宣告を受けました。短期間の間に二度もの大手術を受け,からだもこころもボロボロ。このダメージは筆舌に尽くしがたいものでした。

 いま,ようやく回復期に入って,さあ,これからという段階でまたまた肝臓の別のところに転移がみつかり(10月),さて,これをどうするかと思案中。主治医(外科)も,さすがに三度目の手術には慎重になり,いくつもの治療法の選択肢を提示してくれました。が,最後はご自分で決めてください,とのこと。

 それを受けて,いま,いろいろの人に相談したり,本を読みまくったり,と慌ただしい生活を送っています。この間にも,わたしのからだとこころは微妙に変化しています。揺れ動くからだとこころ,と言えばいいでしょうか。でも,その割には,自分で言うのも変ですが,意外に本人はケロリとしています。ここにきて,腹が決まりはじめているようです。

 基本的には,大きな流れに身を委ねる,という心境です。いまさら,じたばたしたところでどうなるわけでもありません。いま,肝臓の末端に転移した癌が,これからどのような動き方をするかはだれにもわからないのですから。ここはじっくりと自己と向き合い,そのからだとこころの声に耳を傾けながら,それなりの結論を導き出してみようとおもっています。

 まあ,それにしても1年5カ月の間に二度の手術を受けますと,人間,すっかり様変わりをしてしまうものです。いまや,まるで別人です。外見は,少し痩せたね,と言われる程度ですが,内面はまるで別世界を生きているというのが,わたしの正直な実感です。

 まずは,からだ。癌の宣告を受ける前までは,病気とはまるで縁のない,健康そのものの生活を送っていましたので,記憶に残るような病人のからだというものを経験したことがありませんでした。いまは,そのま逆のからだを生きているのですから,不思議な体験の連続です。たとえば,全身のいろいろの部位から日替わりメニューのように,いろいろのサインが送られてきます。それをどのように読解したらいいのかわかりません。仕方がないので,サインが出てくる元の原因を考え,それに対応するのが精一杯。

 いま,一番多いサインは,胃腸と背中。胃腸は食事をすると,必ず,なんらかのサインを発してきます。まずは,心地よいか,違和感があるか,を知らせてくれます。違和感がある場合には,その原因をあれこれ推測しながら考えます。そして,思い当たることがあればそれに対応して,つぎからはそうならないように気をつけるようにします。それらはじつに微妙なサインも含めると数えきれないほどです。背中にいたっては,まさに日替わりメニューのように痛む場所が転々と移動します。これはいったいなにごとだろうか,と最初は考えあぐねました。が,最近は,だいぶベテランになってきましたので,このサインはこれこれ,こんどのサインはこれだな,という具合にある程度は判断できるようになってきました。こうして毎日,四六時中,からだと会話を交わしていると言っても過言ではありません。

 つきは,こころ。癌については以前から関心がありましたので,かなりの本を読んでいました。たとえば,帯津良一さんの本はほとんど読んでいました。つづいて,近藤誠さんの本もセンセーショナルな内容でしたが,言っていることの根本はよくわかりました。ですから,最初の癌の宣告を受けたときには,手術を受けるべきかどうか相当に考えました。が,それほど動ずることはありませんでした。ただ,「来たか」という驚きはありました。もっとさきにあるとおもっていたものが,手のとどくところにきてしまったか,という一種の感慨のようなものでした。

 それからも癌の本は集中して,かなり読みました。しかし,癌というものの全体像はかなり明確になってきましたが,わたしの「こころ」の問題に応答してくれる本は,あってもほとんどピントがづれていて,役立たずでした。むしろ,いま,そうだったのか,と気づいて再読をはじめているのは『般若心経』であり,道元さんの『正法眼蔵』であり,『修証義』であり,はたまた西田幾多郎の本です。そこに,なんとフリードリッヒ・ウィルヘルム・ニーチェやマルチン・ハイデガーやジョルジュ・バタイユが加わり,一気にジャン=ピエール・デュピュイやジャン=ピエール・ルジャンドルへと連鎖してきています。そして,この人たちにはある共通点があることもわかってきました。ひとことで言ってしまえば,それは「ドグマ」。あるいは,「人間的生存の基底」。はたまた「演出」。つまりは,ルジャンドルの世界に回帰してくるというわけです。

 そして,つまるところ,こころの拠り所というものは自分で決めるしかない,ということ。それが正しいとか,間違っているとかは問題ではなく,いま,このとき,このところにおいて,わたしは「かく考え,そこに信をおく」ということ。すなわち,わたし自身がこころの底から納得するかどうか,ただそれだけ。古いことばを使えば,それは「信心」。いな,これこそが宗教の核心。「信ずる」ということが,どれほど大きな意味を持っているかということが,ようやくわかってきたようにおもいます。

 でも,まだまだ,どのように変化していくかはわかりません。道元さんのことばを借りれば「修証一等」です。つまり,死ぬまで悟りと修行の連続ですから。

 ここまで書いてきて,ふと,脳裏をよぎるのは,やはり『修証義』の第一節です。これもまた道元さんの名文の一つです。

 「生を明らめ,死を明らむるは仏家一大事の因縁なり,生死の中に仏あれば生死なし,但生死即ち涅槃と心得て,生死として厭うべきもなく,涅槃として欣うべきもなし,是時初めて生死を離るる分あり,唯一大事因縁と究尽すべし」。

 「生死を離るる分あり」ということばが,不思議な響きとともにこころにすとんと落ちてきます。よし,これで行こう,と。

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