2011年6月16日木曜日

バタイユ『宗教の理論』読解・その9.「8.戦争──暴力が外部へと奔騰するという幻想」について

なにゆえにこの節があるのだろうか,としばし考えてみる。
そして,みえてくることがらは,戦争とはなにかという根源的な問いをみずからに発してこなかった,という自分自身への反省である。だから,この節でバタイユが言おうとしていることがらがあまり明確にみえてこない。

とまずは,いいわけをしつつ,いくつかの留保を残しながら,現段階での読解を提示しておくことにしよう。あくまでも議論の手がかりのために。

バタイユは,戦争と祝祭とは似たところがあるが,厳密にはまったく別のものだ,と主張しているように読める。その分岐点となるのは,どうやら「有用性」にあるようだ。

たとえば,こうだ。戦争も祝祭も「破壊的な激烈さ=暴力性」の発露という点では共通しているのだが,その主眼が「有用性」に向けられるのが戦争であり,「消尽」に向けられるのが祝祭だ,と。この裏側にある理論は,もはや断るまでもなく戦争は「人間性」の世界の産物であり,祝祭は「動物性」の世界への回帰願望からうまれてきたとするバタイユ仮説である。しかし,すでに,これまでの節で考察してきたように「祝祭」もまた,ある意味での「有用性」の概念のなかに取り込まれていく。だから,「祝祭」のなかで再現可能な「動物性」の世界は,あくまでも「有用性」の許容範囲内でのことである。

このことは,サッカーのワールド・カップなどの競技場とその周辺のことを想定してみるとよくわかるだろう。フーリガンの存在はその判断の分岐点となる。大会運営者の,あるいは,治安維持者の許容範囲内でのフーリガンの活動は見逃してもらえるが,その範囲を逸脱した場合には,ただちに制御の対象とされる。その基準はあってないようなものだ。それを決めるのは人間性(つまりは,理性)の支配論理である「有用性」である。だから,フーリガンの共有する「内奥性」の発露をどこまで認めるかという治安上のレベルの話になる。

サッカーの歴史を少し繙くだけで,じつは,「動物性」(「内奥性)の発露の場が少しずつ抑制され,排除されながら,ついには人間性の求める「有用性」の枠組みのなかに絡め捕られていくことになる。すなわち,サッカーの「事物化」である。これが近代スポーツ競技の成立過程の内実なのだ。この意味でも,バタイユの『宗教の理論』は,スポーツ史やスポーツ文化論,もちろん,スポーツ哲学を考える上で不可欠の文献である,ということになる。だから,このバタイユの視野をみずからの思考の領域に取り込むことによって,スポーツ事象のみえ方は一変する。そして,これまで抑圧,隠蔽されてきたものの闇の世界が浮き彫りになってくる。すなわち,スポーツ(および,スポーツ的なるもの)の根源にある運動欲求のよってきたる動物性(内奥性)の世界が,にわかにクローズアップされることになるからだ。そして,そこまでわたしたちの視野が広がったところで,はじめて,「生きものとしての人間」にとってスポーツとはなにか,という問いが成立する。わたしの意図するところはここにある。

この節で,もう二つだけ注目しておきたいことがある。
一つは,戦士が到達するかにみえる内在性はみせかけのものにすぎない,という指摘である。つまり,戦争行動は,戦士の「生」の価値を否定して,賭け(勝つか負けるかという戦争)に身を投げ出すことによって個人が解体され,供犠と同様に内在性に向うかにみえるけれども,時間の経過とともにその「生」に価値が付与されるようになる。なぜなら,「生き残った方の個人が,その賭への投入の結果を利益として享受する人」になってしまうからである。すなわち,「有用性」への転換以外のなにものでもなくなってしまうからだ,という。

もう一つは,栄光にかがやく戦士の力は,「一部分は嘘をつく力である」というバタイユの指摘である。戦争行動を支える戦士は,「個体─事物の彼方へと向うはず」なのに,栄光につつまれた個人性の方向に取り込まれていく。つまり,戦士は「個人性の否定という手段によって,個体のカテゴリーのうちに,神的な次元を導入する」。しかし,栄光につつまれた戦士は,一旦はみずからの「生」を否定して,つまり「持続を否定」したにもかかわらず,その結果としてえられた「栄光」を持続的なものにしようとする,「矛盾した意志」をもつことになるからだ,という。

かくして,バタイユはつぎのように言い捨てる。
「戦争は一つの大胆な突出であるけれども,そのからくりは最も見えすいたものである。」

この一文に追い打ちをかけるようにして,栄光の戦士が過大評価したり,「なにものでもないものにたぶらかされて自分を大したものだと空威張りするためには,力に劣らず単純さが──そして愚かしさが──必要であろう」と書き記している。

さて,ここでバタイユのいう「栄光の戦士」を,「栄光にかがやくトップ・アスリート」に置き換えてみると,そこにみえてくるものの異形性が浮かび上がってくるのだが,それははたして深読みのしすぎだろうか。


2 件のコメント:

SIBATA Hal'hiro さんのコメント...

 バタイユという方の著作を全く読んでいないため、勘違いを承知で「祝祭」は、モンゴルのナーダムのような「祭典」、さらには遠州と信州の国境・兵越峠で行われる「峠の国盗り綱引き合戦」などをイメージして読んでいましたが、「その10」でみると、この解釈でよかったように思うのですが、どうでしょうか?

Unknown さんのコメント...

SIBATAさんへ。

コメント,ありがとうございました。祝祭を考える入り口としては,わたしも同じように考えます。問題は,表層にみえているパフォーマンスの根っこにあるものがなにであるのかを見届けること,ここがポイントだろうと考えています。むしろ,もっとも詳しい牛久保の祭りを事例にして,その構造を分析してみたらいかがでしょうか。だれのための,なんのための祭りなのか,と。
inamasaより。