2011年6月25日土曜日

『原発労働記』(堀江邦夫著,講談社文庫)をようやく読み終える。哀しい。

なんと哀しい現実が,わたしたちの知らないところで展開していたことか。そして,それがいまもほとんど変わることなく展開していることか。

新聞などで原発の作業員という名のもとにひとくくりにされている人たちの「作業」の実態が淡々と語られている。しかも,1978~79年にかけて,著者自身が原発作業員としてはたらいた体験をありのまま記したものだ。日本の原発が営業開始したのが1970年の敦賀発電所だというから,それからまだ間がないころの,ほんとうに初期のころの定期検査の実態が語られている。

まずは,強烈な印象に残ったことから書いておこう。
原発作業員とは被曝との闘いのなかでの作業であるということ。一日に被曝してもよいとされる限界ぎりぎりまで作業をして,それを超えてしまうと,作業は打ち切り。しかも,累積被曝量が多くなると首である。まさに,使い捨て。

建屋内はものすごいホコリがたまっていて,それを手作業で拭き取るのだということ。そこにたまっているホコリとは,いうまでもなく放射性廃棄物質の一種である。なんのことはない,「死の灰」のことだ。その量たるや恐るべきもので,歩くだけで舞い上がり,周囲がよくみえなくなってしまうほどだ,という。

その作業は死にそうに苦しいということ。なぜなら,防護服に身を固め,全面マスクをすると,間違いなく呼吸困難になってしまうという。完全武装なので,体温の逃げ場がない。全身から滝のような汗が流れ,目にもしみこみ(見えなくなることがある),マスクにホコリが詰まって呼吸困難に陥る。苦しくなると,仕方がないので,そのマスクをはずしてしまうこともある,という。はずしてしまえば,どうなるか。体内被曝である。そういう放射線量は計測されない。

原発は電気を発電することだけを目的に設計されていて,原発を維持管理することを配慮した設計にはなっていないということ。たとえば,定期検査のたびに作業員が入っていって作業する場に電灯がほとんどない,という。だから,一人ひとりがつけるヘッド・ライトが頼りだという。ときには,数人で入っても先導役が一人,手提げランプをもって入り,そのあとを手さぐりでついていくこともある,という。しかも,建築現場の周囲にあるような踏み板一枚が並んでいるだけで,一歩足を踏み外せば何十mも下に転落してしまう,という。

原発作業員は,あちこちでケガをしているのだが,それは一切,極秘にされてしまうということ。いわゆる原発は「安全」なものでなくてはならないので,作業員のケガは闇から闇へ消されてしまう。つまり,労災保険の対象にはならない,ということだ。ケガが生傷であったら,それは即,体内被曝となる。そのための応急処置すら現場の素人の手で適当に処理されている。その手の「事故」はあちこちで起きているという。著者もまた,灯もなく足場が悪かったために転落して,肋骨を骨折している。しかし,事務所では,ひたすら原発ではなく,別のところで転んだことにして,一般の病院に通院してくれ,その代わり,十分な治療費を支払う,と主張。もし,ここで労災にしてくれ,と踏ん張れば,ほどなく解雇されるという。こういう事実の隠蔽工作の積み重ねの上に「無事故」「安全」が連呼されていく。そして,それを実証するかのように統計処理(隠蔽)された数字を見せつけられる。それをわたしたちは信じさせられてきたというわけだ。

原発作業員は,きわめて複雑な下請け制度のもとでかき集められ,世話をされ,給料の支払いを受けていること。つまり,直接的には,親方と呼ばれる「手配師」が作業員をスカウトしてくる。それを,親方の懇意にしている下請け会社に紹介する。そのまた上の下請け会社に登録して・・・という具合に何層にも下請けが連なっている。最近,新聞に掲載されていた図式でも「第四次下請け」会社まで確認されている。しかも,これらの下請け会社がそれぞれ作業員に支払われる給料の「ピンはね」をしている。東電から支払われる作業員一人への給料は相当な額だそうだが(この額がいまだに明らかにされてはいない),じっさいに作業員の手にわたるときには微々たる日当になってしまう。場合によっては,すぐ上の下請け会社が倒産してしまったからという理由で,支払われないことさえある,という。

もう,これ以上は哀しくて書けない。こんなことが現実に行われているのだ。
だから,とても一気には読めない。そのむかし『原発ジプシー』という書名で初版が刊行されたときには,こんなことがあるのだろうか,というまるで非現実の世界を想像しながら読んだ記憶がある。しかし,いまや,そうはいかない。それが厳然たる「現実」なのだから。

こういう人たちの犠牲の上に,原発が存在する。いや,原発は存在しないのかもしれない。なぜなら,人間の手で制御できないものを「存在」とはいえないからだ。それは,まるで「神」のような,人間の世界を越えた存在というべきだろう。だから,わたしたちがいま向き合っているのは「原発らしきもの」なのだ。だって,もはや,発電すらできないしろものとなりはてているのだから。こういう得体のしれない「化け物」の犠牲になっている人たちのことに思いを馳せるとき,それでもなお「原発推進」と言い続ける人たちは,はたして「人間」なのか,とわたしは考えてしまう。かれらは,もはや,人間の顔をした,原発と同じ「化け物」なのかもしれない。

しかし,そういう「化け物」と運命共同体にはなれない。と叫んだところで,その「化け物」たちと運命をともにするしか,いまや,選択肢がないのだ。

なんと「哀しい」時代を生きることになったことか。

1 件のコメント:

柴田晴廣 さんのコメント...

 『原発労働記』読んだことがありませんが、下請けという立場からこの記事と6月8日付け「『原発労働記』(堀江邦夫著,講談社文庫)に手が伸びる」をさもありなんと
 契約書が存在するか否かはともかく、下請と元請の間には下請契約が結ばれています。
 契約は殺人依頼契約など公序良俗に反しなければ、契約自由の原則が支配する世界です。
 民法では3編2章で契約についての規定があり、ここに13の契約が挙げられています。
 この中に下請契約は挙げられていません。請負契約(同章9節)を基本に適宜売買契約(同章3節)など他の契約の規定に照らし、下請契約が法に従ったものか否かの判断がされるわけです。
 民法に掲げられた13契約は典型契約といわれるもの。たとえばこの中の雇用契約(同章8節)には、弱者保護という観点から労働基準法はじめ特別法が規定されています。
 賃貸借(同章7節)などもやはり弱者保護の立場から借地借家法などの規定があります。売買契約なども消費者保護の特別法があります。
 ところが、下請契約については、そもそも典型契約として民法に掲げられていません。
 特別法もゼネコンか何かの下請けに適用される支払いに関する短い条文の法律があるだけです。
 法がないわけですから、まさしく無法地帯なわけです。
 原発に限らず、下請契約の世界は問題が山積みされています。原発を通して下請けの問題点が浮かび挙がるのではないかと期待します。