2011年8月26日金曜日

菅啓次郎×小池桂一著『野生哲学』アメリカ・インディアンに学ぶ(講談社現代新書)を読む〔補遺〕。

やはり,昨日のブログだけで終わるのはなんとも後ろ髪が引かれてしまい,納まりがわるい。つまり,菅啓次郎のいわんとするところをひとつも紹介しないで終わるわけにはいかない,と。というわけで,〔補遺〕として追加することにした。

じつは,わたしは本に巻かれている帯と,そこに書かれているキャッチ・コピーが好きだ。そこに,著者なり,編集者なりの,その本によせる思い入れのようなものを感じ取ることができるからだ。そして,そのときに,まったくの予備知識もなく,いってみれば無垢の状態で,素直に感じたことはほぼ間違いがない。

で,この本の帯が,また,面白い仕掛けになっている。まず第一に,けたはずれに大きい。一瞬,カバーかと思うほどの幅広の帯だ。しかも,カラー。そこに,小池桂一の絵がたっぷりと描きこまれている。その絵に重ねて大きな白抜きの文字が浮かぶ。「人間がこの地球で生きるということ」「豊穣で普遍的な世界の教え」とある。思わず,この帯をはずして横に拡げてみる。表紙の横幅のほぼ4倍もある。たぶん,ナバホ族が住んだ聖地を思わせる風景である。しかし,文明化社会に生きる人間からすれば,たんなる荒涼とした砂漠と青空と白い雲でしかない。しかし,この絵をじっとみる(観賞,観照,透視する)だけで,もう8割方は,この本の内容を想定することができるし,さらに,理解したといっても過言ではないほどだ。

以上が,帯の話だ。

さらに,表紙カバーの内側に折り込まれたところには,つぎのような「本文より」という抜き書きがある。このことばが,どれほどのインパクトをもって受け止められるかは,その人のトータルなレディネス(そこから立ち上がる感性)次第だ。が,とにかくこの文章からまずは紹介しておくことにしよう。そは,つぎのような文章である。

七世代先を見て決定する
──部族の会議が開かれるたび,人々はまず自分たちの義務を次のような言葉で誓いあうのだった。「何事を取り決めるにあたっても,われわれの決定が以後の七世代にわたっておよぼすことになる影響をよく考えなくてはならない」と。ある決議事項をめぐって自分が投票するなら,その票は自分だけではなく,まだ生まれていない者たちも含めて,以後の七世代のための一票なのだ。ざっと見て,百五十年から二百年。そんな遠い未来の子にまで,いくつもの世代を超えて,いま決められたこのことは,影響を与えつづけるのだから。

「アッ」と思わず小さな声をあげてしまった。なぜなら,わたしの思考にはまったく欠落していた発想だったからだ。せめて,孫の世代くらいまでは考えなくては・・・という自戒程度でしかなかったからだ。「そうかぁ,七世代かぁ」と思わず天を仰いでしまった。

わたしたちはなんと安易にさまざまな約束事や法律を定めていることだろうか,と。
「原発推進」を国策と定めた当時の総理大臣中曽根康弘は,はたして「七世代先」を見越していただろうか。そして,いま,「脱原発」を主張するわたしたちもまた「七世代先」を視野に入れて決断をくだしているだろうか,と。

「3・11」を通過したいま,わたしたちは人類史に残るきわめて重大な選択を迫られている,とわたしは考えている。それこそ「七世代先」を視野に入れた決断が必要だ。しかし,不思議なことに,そうした緊張感があまり感じられない。それどころか「3・11」以前の日常を一刻も早くとりもどそう,という掛け声すら聴こえてくる。そうではないだろう,とわたしは考える。「3・11」以前の日常に大きな問題(科学神話,あるいは原発安全神話)があったからこそ,こんにちのフクシマが発生してしまったのではなかったか。

菅啓次郎の視線は,もっぱら,そこにそそがれている。しかも,「3・11」以前に,この本の初校は上がっている。つまり,フクシマ以前から,菅啓次郎は「科学信奉主義」に埋没してしまっている現代人への警告として,アメリカ・インディアンの「智慧」に学ぶべきだ,と主張したかったのだ。そこに,まるで絵に描いたかのように,残念ながら「3・11」が起きてしまった。

その結果,この本は「3・11」以後を生き延びるわたしたちのためのひとつの重要な指針を提示することになった。その意味ではまことにタイムリーな刊行となった。その眼で,この本をじっくりと腰を据えて読むことをお薦めしたい。内容は,アメリカ・インディアンの人びとが,長い歴史をとおして蓄積してきた「経験知」を菅啓次郎が抽出して,それをひとつの「哲学」としてわたしたちに提示したものである。

「土地」とはなにか,動物とはなにか,植物とはなにか,太陽とはなにか,と一つひとつテーマを提示しながら,アメリカ・インディアンの人びとがどのようにして,これらと「折り合い」をつけながら生きる智慧を身につけてきたのか,と菅啓次郎は熱っぽく語りかけてくる。そして,「大地のすべては神聖」なものだ,と説く。その大地こそ,小池桂一が帯に描きこんだナバホ族の聖地だ。

わたし自身のことで恐縮だが,8月の上旬に神戸市外国語大学の集中講義で,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をスポーツ史・スポーツ文化論的に読み解く,というテーマに取り組んだばかりのところでこの本と出会った。だから,バタイユの思考の延長線上に,そのままそっくりアメリカ・インディアンの智慧が直結してしまった。だから,こころの底から感動してしまった,というわけだ。矛盾をいっぱいに抱え込んだまま「生きる」ことを余儀なくされている人間の原像を,どこまで浮き彫りにすることができるのか,というバタイユの願いが,菅啓次郎の手によって,アメリカ・インディアンの智慧をとおして写し鏡のように描きだされている。

だから,まだまだ,述べたいことはたくさんある。が,それは際限のないことだ。だから,この辺りでこのブログは閉じることにしたい。そこで,最後にひとこと。この本は,「3・11」以後を「生きる」ということを考えるための,まことに時宜をえたテクストだ。ぜひとも,ご一読をお薦めしたい。

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