2011年8月4日木曜日

バタイユとドイツの詩人リルケとの関係について。

バタイユの『宗教の理論』の訳者である湯浅博雄が,その巻末に付した「解題」がみごとである。こんなに要領よく,手短にバタイユをわからせてくれる文章もめったにお目にかかることはない。だから,どこかでバタイユについて話題になりそうなときには,ここをさっと読んでからでかけることにしている。こんどの集中講義の前夜には,間違いなくここを読んで,思考の整理をしておくことになるだろう。それほどに,湯浅博雄の解題はみごとである。

その解題には,つぎのようなタイトルが付されている。
「意識の経験・宗教性・エコノミー──解題に代えて」
バタイユの『宗教の理論』の解題のために「意識の経験・宗教性・エコノミー」という三つのキー・ワードをならべているところに,湯浅博雄の透徹した視線がみごとに表出している,とわたしは受け止める。バタイユが『宗教の理論』で語るところの「宗教」は,いわゆる世界宗教のような具体的な宗派宗教のことを指しているわけではない。そうではなくて,そのまったく逆で,人間の「意識」のなかにそれとなく滑り込んでくる「聖なるもの」への畏敬の念をひとまとめにしたようなもの,それがバタイユがここでいう「宗教」の概念である。しかも,そうした「聖なるもの」への畏敬の念と「エコノミー」(バタイユのことばでいえば「普遍経済学」)は,同じ土壌から生まれてくるものだというわけだ。つまり,モースのいう「贈与」であり,「ポトラッチ」である。

いささか脱線してしまったが,本題のバタイユとリルケの関係について,湯浅博雄の「解題」のなかでとても興味深い話が展開されているので,そちらに移ることにしよう。

湯浅博雄は,バタイユのいう動物性や内奥性について解説するなかで,バタイユの用いた「詩的な虚偽」という表現をてがかりに,ドイツの詩人リルケを引き合いに出す。そして,リルケの詩の断片を引用しながら,バタイユの思想の根源に迫っていこうとする。たとえば,リルケのいう「世界内面空間」ということばに注目する。そして,リルケの詩集『後期詩集』から,つぎのようなフレーズを引用している(1914年8月の日付のある詩)。

 あらゆる存在を貫いて唯一の空間が拡がる,
 世界内面空間。黙したまま鳥たちは飛ぶ,
 われわれの真中を通過して。おお,伸びようとする私,そして外を視る,
 すると樹木は私の内で生い茂るのだ。

余分な説明はぬきにして,いきなり本題に入ることにしよう。
わたしは,この引用を読んだ瞬間に,「ああ,禅だ」と直観した。リルケのいう世界内面空間は,禅でいうところの「悟りの世界」と同じではないか,と。すなわち,禅的時空間。つまり,自他の区別のない,あらゆるものが一つに溶け合って存在する世界。バタイユは「水のなかに水があるように存在する」という言い方をする。

このリルケの引用について湯浅博雄はつぎのような解説を加えている。
「リルケが<世界内面空間>と呼ぶもの,それは外と内がある連続性へと集められ,同時に内奥でもあり,かつ外でもあるような空間,ブランショが言うようにそこでは空間は外において既に精神の内奥性であり,内奥性はわれわれの内で外の現実であるので,われわれはそこにおいては自分の内で内奥性としてあることで外にいるような空間である。あるいはまたそこでは,われわれは<開かれたもの>と親密に交わり,つまりわれわれ自身<開かれ>ており,<純粋な関係>がかいま見られるような空間であると言ってもよいだろう。リルケにとって文学の探求とはこのような空間を窮めることであり,すなわちそれは文学的な言語が可能となる空間,あるいは詩的言語の行為や活動のみが可能にする空間をその果てまでたどることである。」

リルケにとっては,この<世界内面空間>に文学的な言語や詩的言語によって「その果て」までたどることが,最終ゴールになっていた。バタイユに言わせれば,リルケのいう<世界内面空間>は,かつて人間が動物であったときに身をゆだねていた空間である。そして,そこから離脱して人間性の世界に移行したことによって,人間としての「拘束」や「苦悩」がはじまる。ヨーロッパ近代の合理主義が到達した世界は,まさに,その一つの到達点を示している。そのことに気づいた人間は,ふたたび,動物性への回帰をめざすことになる。リルケは文学の世界でそれを実行に移した人だ。バタイユは,思想・哲学の世界で,人間存在の根源的な問いを突きつけつつ,動物性から人間性へ,そして,ふたたび,人間性から動物性へと回帰する,とてつもなく大きな人類史的スパンから
「わたしたちのいま」を透視しようとする。

そこで,わたしは,ここに「スポーツ」(ことばの正しい意味で)という補助線を入れてみたいのである。それぞれの時代や社会を生きる人間にとって「スポーツ」とはなにであったのか,と。そして,いま,なにであろうとしているのか,と。

リルケのいう<世界内面空間>について「スポーツ」の領域で考えることはそんなに困難なことではない。バタイユのいう動物性や内奥性について「スポーツ」の領域で考えることも,そんなに困難なことではない。しかし,そのことを真っ正面に据えて,「スポーツ」の哲学的な議論を展開した人を,寡聞にして,わたしはまだ聞いたことがない。哲学者のH.レンクですら,みずからの体験として,「フロー」現象を語ることはあっても,そこに含まれる人間の存在論的な議論を展開しようとはしていない。リルケが文学や詩の領域で取り組もうとしたことが,「スポーツ」の領域でも,やはり,きわめて重要なテーマであることは明らかである。そのことは,バタイユの『宗教の理論』が,他のいかなる議論よりも深くわたしに語りかけてくる。

このさきの議論を,ぜひ,集中講義で展開してみよう。

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