2011年8月19日金曜日

デブラ・グラニック監督・脚本『ウィンターズ・ボーン』の試写会に行ってきました。

全世界絶賛!各国映画賞46部門受賞!139部門ノミネート!!
世界中の映画賞を席巻したインディペンデント映画の新たな傑作。
10月29日(土)TOHOシネマズ シャンテ他,全国ロードショー。

こんな鳴り物入りの映画『ウィンターズ・ボーン』の試写会(六本木)に行ってきました。試写会で映画をみるのは『アンチ・クライスト』以来のことです。『アンチ・クライスト』が文字通り衝撃的な映画でしたので,今回もまた,どんな映画なのだろうかと楽しみにでかけました。

おそらく,ことしの都心での最高気温を記録したのではないか(36℃)と思われるほどの,熱風が吹いている中をでかけました。15時30分開演でしたので,14時少しすぎに家をでました。条件的には最高気温。でも,電車に乗れば,あとは涼しいもの。しかも,試写会の部屋の中は,冷え冷えに冷えていて,上映が終るころにはからだの芯まで冷えてしまいました。これでは風邪を引いてしまう,と心配したほどでした。それでも,さすがにベテランと思しき人(女性)は,席につくなり肩掛けとひざ掛けをとりだして,完全武装。最初は,この人はなにを勘違いしているのだろうか,と思ったほどでした。が,この人が正解でした。

試写室が冷えていたから・・・というのはなんの理由にもなりませんが,試写室をでるときのわたしの気持ちも「冷え冷え」でした。なんの感動もないのです。あの『アンチ・クライスト』を見終わったときは,「えらいものを見てしまった」「考えなくてはならないことが山ほどある」「さすがに凄い映画だ」と興奮していました。そして,あまり来たことのない夜の半蔵門あたりを歩いた記憶があります。しかし,今回は,なにもありません。映画のエンディングも妙なものでした。突然,「ブチッ」となにかが壊れたような音とともに真っ黒な画面が流れ,それからしばらくあってエンディングのテロップが流れはじめました。ああ,やはり終ったのだ・・・・と。

『ウィンターズ・ボーン』,直訳すれば『冬の骨』。この骨は,死んだ父親の骨。この骨のお蔭で,父親が保釈金代わりにした家・土地を失わずに済む。父親は麻薬のディーラー。身辺が危なくなって家をでてしまってから行方がわからない。しかし,その後,逮捕されたが保釈金を払って,逃亡生活を送っている,ということだけは噂で聞いている。母親は,こころの病にかかり,会話もできない闘病生活者。17歳の娘(リー)が幼い弟と妹の面倒をみながら一家を支える。しかし,お金が底をつき,軍隊志願までするが,未成年ということで断わられる。そこに,一週間以内に家の立ち退きをするよう保釈金の保証人から迫られる。逃亡中の父親が,裁判所に出頭すれば,家・土地は失わずに済む。仕方がないので,17歳の長女が父親探しをはじめる。ここからの展開が凄まじい。けたたましいほどの苦労のはてに,ようやく手にしたものが,父親の骨。この骨が,父親の「死亡証明」となり,家・土地を失わずに済む,という話。

ここには書かなかったが,映画の中には,恐るべき「ならず者」一家の親族がつぎつぎに登場し,長女のリーは,みるも無残な辛酸を舐めることになる。その艱難辛苦を乗り越えたさきに,ようやく到達したのが,父親の骨。涙なしには見られない映画には違いない。そして,大きな感動も得られたに違いない。なのに,わたしのこころは感動すらしない。なぜか。

「3・11」以前に,この映画をみていたら,わたしは文句なく感涙に打ち震え,絶賛のことばを書きつけることになっただろうと思う。しかし,「3・11」を通過したいまのわたしのこころは,もはや,そんな反応をしなくなっている。もっともっと悲惨な日常を,いま,わたしたちは生きているという実感の方が強いからだ。「未来はすでにここにある」(西谷修),つまり,未来を夢見ることすら不可能となった日常を,わたしたちは,いま,生きている。夢も希望もない日常を。

それに比べたら,この映画はアメリカの山村で暮らす,麻薬に汚染された一族の,当たり前すぎるほどの凋落の途次にある悲劇をとらえたものにすぎない。アメリカの国家的恥部を暴いたというべきか,それとも,アメリカ社会の根源に横たわる崩壊のシナリオの一つを描き出したというべきか。だから,この映画を,会場でもらったリーフレットにあるコピー,すなわち「愛する家族を守るために。自分の未来を切り開くために。一人の少女が希望を持って力強く生きる姿に,誰もが心を揺さぶられる感動作」どおりには受け止められなかった。

むしろ,闘う少女の姿に,あまりに無謀というべきか,アメリカのいう「テロリスト」の姿が重なり,逆にならず者一家の親族がアメリカ帝国そのものにみえてきて困ってしまったほどだ。アメリカのいう「正義」とはこの程度のものだ,という意味で。

この映画は未完のまま終った。なぜなら,殺された父親の犯人がそのまま放置されるはずもないし,殺された父親の兄(少女の伯父)も麻薬中毒者ながら,犯人を知っていると少女に告げ,このままでは済まされない予感につつまれている。となれば,犯人(ならず者一家のだれかと推定できる)の側も放ってはおくまい。このあとに,待っているのは,ここまでのストーリー以上の凄惨な事件の連鎖だ。場合によっては,少女一家も皆殺しにされてしまうかも知れない。そこには明るい未来はない。だから,突然,ブチッという不快な音とともに,この映画は終る。

そして,どう考えてみても,この映画は,アメリカのある山村の麻薬に毒されてしまった一族の間に繰り広げられる「正義」(?)の闘いにしかみえてはこない。だとしたら,この悲劇は一族全滅をもって終わりを告げることも可能だ。可哀そうなのは無垢な子どもたちだけだ。少女の賢さと気の強さは,このさきどのような展開をみせるか予断を許さないものがある。一転して,女親分になる素質もある。みずから,「わたしのからだには一族の血が流れている」と断言までしている。

が,この映画は,この一族の間に起きている利害関係にのみ終始している。それ以上の広がりはない。小さな社会のできごとにすぎない。そして,少女ですら,一番身近な伯父の存在に怯えている。ラストになって,ようやく伯父と姪の関係がやや修復されることになるが・・・・。それでも伯父は麻薬づけのままだ。未来に明るい展望はない。

ひるがえって,わたしたちの「いま」はどうか。福島原発のこれ以上の暴発をなんとか制御しえたとしても,何万人もの作業員を使い捨てにし,放射能は垂れ流しのまま,使用済み燃料棒は半永久的に水で冷やしつづけなくてはならない,そういう日常をわたしたちは余儀なくされている。
東日本の海には,いまも一万ともいわれる遺体が沈んだままだ。その霊をきちんと弔うことすらできないまま,見捨てられたままの日常。家・土地がありながら住むことすらできない20キロ圏内の住民をはじめ,7万人を超えるといわれる避難生活を余儀なくされている人たちの日常。よもやと思っていた会津でも川崎でも,数値の高いセシウムが発見される日常。いよいよ東京都民もガイガー数量計を持ち歩かなければならなくなる可能性がないとはいえない日常。水や食べ物すら,すべて危ないと疑わなくてはならない日常。

こんな言い方は許されないのかもしれないが,わたしは,この映画をみたあとの帰りの電車のなかで,ひたすら「日本のいま,の方が何倍も,何十倍も,いやいや,何万倍も」無残な生活を強いられている,という現実に想いを馳せていた。つまり,逆説的な言い方になるが,『ウィンターズ・ボーン』をみたことによって,ますます「日本のいま」が際立ってみえてくるようになった,ということだ。その意味で,わたしは恐ろしい体験をしてしまった。

6月末に尋ねた東北地方の被災地の光景が,いまもまた,ふたたび鮮明に脳裏に浮かんでくる。あの三日間の訪問で焼きついた記憶が,この映画をきっかけにして,ふたたび甦ってくる。そして,もう一度,被災地に立て,とわたしを促す。とりわけ,20キロ圏内に立て,と。できることなら,原発の近くに,と。それが叶わぬなら,女川原発へ行け。そこなら,すぐにも行ける。

そして,未来をいまに引き寄せてしまった,わたしたちの現在を,もっともっとしっかりと見届けておかなくては・・・と焦りのようなものすら感ずる。からだの奥底にしっかりと刻み込んでおくこと。そして,確たる行動がとれるように。

とうとう「原発推進」派が,ようやく鎌首を持ち上げるようにして立ち上がりつつある。その魁となったものが,北海道の高橋はるみだ。政治の大混乱に乗じて,着々とその触手をのばしつつある。わたしたちの眼にみえない裏側で「やりたい放題」だ。なのに,人びとの意識は,日々にフクシマからは遠ざかる。いわゆる風化現象のはじまり。恐ろしいことだ。

この映画を全世界が絶賛しているということは,それぼどに,全世界が「病んでいる」ということでもあろう。しかし,それは「3・11」以前の,贅沢な「病い」にわたしにはみえる。アメリカ社会の「麻薬」と「貧困」の問題は,いまにはじまったことではない。近代社会(資本主義社会)の進展とともに,深く根を下ろすことになった,宿痾のようなものだ。資本(金)がすべて,命は二の次,としてきた社会の必然だ。その点では,日本も同じだ。そのつけが,こんなに大きな負債となって,いま,わたしたちの双肩にのしかかってきている。

わたしたちの「病い」は「3・11」以後にはじまったものだ。そして,そこからは,どうあがいてみても後戻りできないものだ。
いうまでもなく,それは放射能(「死の灰」)の日常を生きることだ。しかも,半永久的に。
骨は焼いてしまうとboneではなくashesになる。この映画の骨はboneであって,しかも,「冬の骨」という限定つきであって,ashesではない。

わたしたちは,いま,「災厄の翌日を生きている。未来はすでにここにある」(西谷修)。
この映画は,このわたしたちの置かれている「明日なき」実態を,さらに鮮明に想起させることになった。少なくとも,わたしには。

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