2011年8月13日土曜日

「アンチ・ドーピング」と「節電」の論理はとてもよく似ている。

「ドーピング」はやめましょう,と言われたらちょっと文句のいいようがない。その前提に立って「アンチ・ドーピング」運動が成立している。それと同じように電気の無駄使いはやめましょう,と言われたらそれはそのとおりと答えるしかない。その前提の上に立って「節電」運動が成立している。

しかし,よくよく考えてみると,この二つは「瓜二つ」ではないかと思うほどよく似た理屈の上に成り立っていることがわかる。

アンチ・ドーピング運動の目的は,よく知られているように,アスリートたちの健康を守るために,競技の公平性を保つために,社会悪(麻薬)を根絶するために,の三つが提示されている。これもまたまことにもっともな目的にみえる。(じつは,この三つを,一つひとつ考えていくと矛盾だらけであることも明白なのだが・・・・。この問題はひとまずここでは問わないことにする。)

しかし,こんなもっともらしい目的をかかげる必要はない。アンチ・ドーピング運動の目的は,近代オリンピック競技会をこんごも維持・発展させるため,のひとことでいい。つまり,現状維持がその最大の目的なのだ。それほどに,ドーピング問題は重大な問題をかかえている,ということだ。つまり,ドーピングをうまく制御できないと,オリンピック・ムーブメントは崩壊してしまう。いわば,時限爆弾のようなもの。だから,目の敵のようにしてドーピングを取り締まろうとしている。

そこに,じつは,大きな落とし穴が待っている。
ドーピングの検査は「抜き打ち」で行われるのが通例となっている。だから,逆の不公平を生む可能性を秘めている。

たとえば,金メダルを剥奪されたソウル・オリンピックでのベン・ジョンソン(100m)の言い分を聞いてみよう。かれは,「おれは罠にかかってしまっただけの話だ」,と強く訴えている。そして,「あの100mの決勝を走った選手全員のドーピング検査をして,おれだけがクロだったのなら,それは納得する」がそうではなかった。かれ一人だけが「抜き打ち」検査の対象とされた。かれの言い分では,あの決勝レースを走った選手のうち,ドーピングをしていなかった人間の方が少ないだろう,という。事実,ドーピング検査に長年たずさわってきた専門家も,カール・ルイスも間違いなくドーピングをしていたと思う,と証言している。

では,なぜ,ベン・ジョンソンだけがチェックを受けなくてはならなかったのか。金メダルだったから,というのがその理由のひとつ。しかし,その影にカール・ルイスの金メダルを期待していた「アメリカ」という国家の姿がちらつく。つまり,「抜き打ち」検査には恣意的な力が働きうるということだ。もっと言ってしまえば,政治的な力が,あるいは,金の力が・・・と憶測はいくらでもできる。ベン・ジョンソンはその罠にはまった,というのである。

不公平をなくすのがドーピングの目的であるのなら,決勝レースに出場した選手は全員,ドーピング検査を受けることを義務化しておけば,なにも問題はない。

アンチ・ドーピング運動の背景には,じつは,もっともっと複雑な構造(思惑)がある(残念ながら,ここでは割愛)。が,いずれにしても,アンチ・ドーピングの目的は近代スポーツ競技を,もっともっと発展させることにある。しかし,その近代スポーツ競技のミッションはすでに終った(すでに,臨界点に達してしまった),というのがわたしの意見である(『近代スポーツのミッションは終ったか』,今福龍太,西谷修,稲垣正浩共著,平凡社)。

だから,なにがなんでも「アンチ・ドーピング」を唱えつづけなくてはならないのである。

他方の「節電」の合唱も,とてもよく似ている。電気の無駄使いはよくない。そのとおり。では,その節電の目的は? 電気が不足しているから。なぜ? 原発が止まってしまっているから。早く原発の運転を再開させないと,いつまでも節電することになるから。そして,もっともっと原発を建造しなくてはならないから。つまりは,「原発推進」だ。

しかし,専門家の計算では,この夏の電気は足りている,という。政府も経済産業省も東電も,この夏の電気は足りない,という。だから,節電が必要だ,と。しかし,専門家の計算によれば,いま運転を休止している火力発電を再開すれば,十分に足りるという。そして,徐々に再生エネルギーに転換していけば,脱原発は可能だという。にもかかわらず,政府も経済産業省も東電も「再生エネルギー」に対して腰が重い。どこまでも「原発推進」にこだわる。なぜか?経済重視。金重視。命よりも金。

原発の安全神話が破綻し,核燃料棒の後始末の方法もないまま(10万年,水で冷やしつづけるつもりらしい),いまなお「原発推進」を唱える不思議な人種たち。政財界の老人たちは,すでに耄碌しているとしても,若い学者・評論家たちにも,そういう輩が少なくないことをわたしは危惧する。そして,いまも「節電」の大合唱だ。

アンチ・ドーピング運動も「決め手」はない。つまり,ドーピングは止めようがないのだ。「いたちごっこ」の連続。どこまでも,どこまでも「いたちごっこ」。あるいは,「もぐらたたき」。終わりのないドラマをみているようなもの。

「アンチ・ドーピング」と「節電」の論理はほんとうによく似ている。
近代スポーツ競技も原発も,その論理は同じ。(ビックリする人がいるかも知れないが,よくよく考えてみていただきたい)
そろそろ「幕引き」にとりかからないといけない。

わたしたちの「命」を守るために。

0 件のコメント: