2011年8月3日水曜日

ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』読解のスタンスについて。

8月8日(月)から神戸市外国語大学で集中講義がはじまります。テーマは「ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』読解──スポーツ史・スポーツ文化論の立場から」というもの。とてつもなく大きなテーマですので,しばらく前からその準備にとりかかっています。

そのための準備の一つは,すでに,このブログをとおして『宗教の理論』読解について,何回にもわたって連載しているとおりです。興味のある方はそれらをご確認ください。相当の分量になりますので,読みごたえは十分だとおもいます。

もう一つは,6月18日(土)に「ISC・21」6月東京例会で行った西谷修さんとのトークです。「ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』をどのように読むか」というテーマで,ほぼ5時間にわたってトークをしました。トークとはいえ,そのほとんどは西谷修さんによる「バタイユ理解のための基礎知識」についてのレクチュアになってしまいましたが・・・。わたしとしては大変ありがたいことでしたし,参加されたみなさんも喜んでくださったとおもいます。西谷修さんといえば,ジョルジュ・バタイユ研究の日本の第一人者ですから(このことについては,また,いつかこのブログでも書こうと思っていることの一つです)。

三つめは,今福龍太さんから送られてきた近著『レヴィ=ストロース 夜と音楽』(みすず書房)の読解です。バタイユはレヴィ=ストロースの論文をしっかりと読み込んで,そこから重要なヒントをえて『宗教の理論』の基本構想を立てています。その意味で,レヴィ=ストロースをどのように読み解くかということは,バタイユ理解のためには不可欠の課題であるわけです。このことについては,このあとのブログで詳しく書きます。

四つめは,8月7日(日)に予定されています「ISC・21」8月神戸例会です。この会で,月嶋紘之さんが,6月東京例会の折に西谷さんがレクチュアしてくださった内容について,要約して報告してくれることになっています。月嶋さんの理解をめぐって,神戸例会に参加される方たちがどのような受け止め方をされるのか,そして,そこからどのような議論が展開されるのか,いまからとても楽しみです。この議論をとおして,わたしの集中講義への準備は完了です。

というわけで,かなり念入りに今回の集中講義は準備してきたことになります。
が,最後に,もっとも重要なことについて,ひとこと述べておきたいと思います。
それは,このブログをとおして何回もくり返していることがらです。
すなわち,「3・11」以前と以後とでは,バタイユの『宗教の理論』を読み解くスタンスが激変したということです。つまり,バタイユが提起したように「動物から人間に移行する」ときに,いったい,なにが起きたのか,という根源的な問いともっとも深いところで今回のフクシマの問題がリンクしているからです。もう少しだけ書いておきますと,動物から離脱して人間になるきっかけの一つは「道具」の発明であり,それを用いる「技術」の獲得であり,「労働」の誕生でした。それは,人間にとってきわめて「有用」なものとして歓迎されました。しかし,あるときから,その「道具」や「技術」や「労働」が人間を拘束するようになりました。つまり,人間が「事物」にからめ捕られてしまって,人間もまた「道具」と同じ「事物」になってしまったということです。その当然の帰結が,今回のフクシマの問題です。もう少しだけ踏み込んでおきますと,便利で役に立つという「有用性」に人間が支配されてしまって,そこで「思考」が「停止」してしまった情況,それがこんにちのわたしたちが直面している現実です。しかも,その「有用性」が突然牙を剥いて,人間に襲いかかってきました。しかも,その便利で役に立つ「有用性」の塊だと信じてきた原発が,ひとたび牙を剥いたら,人間はそれを制御する「技術」を持ち合わせていませんでした。しかも,そんな恐るべき事実がひた隠しにされてきた,という事実に二度びっくりでした。そして,とうとう,わたしたちは手も足も出せない状態に放り出されたままになっています。だから,いまは,ただひたすら「祈る」しかありません。そういう,人類がいまだかつて経験したことのない,まったく新たな「宗教情況」のもとに,いま,わたしたちは立たされています。

西谷修が「未来はすでにここにある」と言い切ったことの意味の一つはこういうことです。

ここまで考えてくれば,もう,バタイユの『宗教の理論』を読み解くスタンスがどのようなものになるかは,明白でしょう。これからあとのことは,集中講義のなかで考えることにしましょう。

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