ダンサーにとって<カラダ>とは何か。
宇宙の感覚器官としての人間身体を問う。
たとえばミミズやバラの花や魚の,大地や海との一体的ありよう。これは人間には不可能である。自然としての身体を持ちながら。なぜだろう・・・人間身体と生命のありようを徹底考察する。
そして「人間身体」という言い方も笠井の独特の表記です。人間の身体でもなく,人間は身体である,でもなく「人間身体」です。この「人間身体」こそ笠井の追求したい最終ゴールではないか,というのがとりあえずのわたしの読解です。もちろん,笠井の最大のテーマは「ダンサーにとって<カラダ>とは何か」にあります。しかし,その<カラダ>とは「宇宙の感覚器官としての人間身体」そのものでもあります。ですから,「人間身体」を究めないとダンサーとしての笠井は納得しないのだ,とわたしは考えています。
じつは,わたしも「スポーツする身体とはなにか」という問いを,すでに長い間,問いつづけてきています。その営みの必然的な帰結として「舞い踊る身体とはなにか」という問いが,その根底にあります。別の言い方をすれば,「舞踊する身体」「踊る身体」「舞う身体」「ダンスする身体」という表記も必要に応じて用いたりしています。ですから,わたしも「からだ」という表記を用いることはあります。しかし,「カラダ」とカタカナ表記をしたことはありません。
ここに,じつは,笠井とわたしとの「身体論」を語るときの基本的な姿勢の違いがあります。笠井はあくまでもダンサーです。そして,そのダンサーにとって<カラダ>とは何か,と問います。つまり,ダンサーである「わたしの身体」は,わたしの「身体」でもなんでもない,単なる<カラダ>だというわけです。そういう<カラダ>とはなにか,それをいかに読み解くか,そこをダンサーは避けてとおることはできない,と笠井は主張します。だから,「カラダという書物」だ,という次第です。
それに引き換え,わたしの「身体論」は,まことに残念ながら,あくまでも抽象論です。言ってしまえば,当事者としての身体論ではありません。若干あるとすれば,若いころに熱中した体操競技をする身体とはなにであったのか,というような経験にできるだけ即して考えようとする程度です。ですから,むしろ,じっさいに生きる人間にとって「スポーツする身体」とはなにか,というような問いになっていきます。これはこれで一つの「身体論」のスタンスであっていい,とわたしは考えています。
そういうわたしのスタンスから,このテクストを読むと,いいなぁ,うらやましいなぁ,とさえ思うほどです。なぜなら,そこには,たえず踊りながら,ダンサーであるおれにとって,このとらえどころのない<カラダ>とはなにか,という対話がつねにあるということです。そして,その次元で納得のできることと,納得できないこととの「境界領域」が,たぶん,ダンサーである笠井の<カラダ>のなかで渦巻いているのだろうと思います。この点が,わたしには欠落しています。残念ながら。
さて,話を少し前にもどします。そして,帯の下段のコピーについて,少しだけ私見を述べておきたいと思います。このコピーは,わたしの感覚器官からすると,「あっ,ジョルジュ・バタイユだ」と反応してしまいます。バタイユは「水のなかに水があるように存在する」,それが自然存在というものであり,動物や植物や鉱物はそのようにして存在している,といいます。しかし,人間は,動物性から離脱してしまったために,残念ながら,どう頑張ってみても「ミミズやバラの花や魚」のように存在することはできません。「自然としての身体を持ちながら」。という具合にみごとに一致していきます。
しかし,笠井はバタイユの世界もしっかりと視野のうちに収めながら,シュタイナーの神智学・オイリュトミーの世界に没入していきます。断るまでもなく,その前に,笠井がダンサーに目覚めるきっかけを与えたのは大野一雄であり,土方巽です。いわゆる「舞踏」ということばが立ち上がるころに,18歳で大野一雄の手ほどきを受けます。
その時のことを笠井はつぎのように回想しています。
「鉛の眼で世界をみろ」,「そこに見えてきたものを踊ってみろ」と言われ衝撃を受けた,と。たぶん,そのときから,まったく意のままにならない,わたしであってわたしではない<カラダ>を読み解く作業がはじまったのだろうと思います。それは,土方巽との出会いによって,さらに深められていったのだろうと思います。
笠井によれば,大野一雄は,ある日,突然,眼の前に現れたコオロギをみて「あっ,わたしのお母さん」と言って,すぐに踊りはじめたといいます。このあたりにも笠井がわざわざ<カラダ>という表記をし,特別の概念付与をしていることの謎を解く鍵があるかもしれません。しかし,それを最終的に決定づけたものはシュタイナーのオイリュトミーだったと言っていいでしょう。
その笠井が説くところの<カラダ>についての深い考察がこの本のなかにはぎっしりと詰まっています。それは,ひとくちに言って,驚くべき内容になっています。おそらく,このような「身体論」を提示した人は,管見ながら,わたしは知りません。(もちろん,大野一雄や土方巽の書いたものとのシンパシーはつよく感じますが,そこにシュタイナーの神智学が入り込みます。この視点が笠井独自のスタンスだと,わたしは理解しています。)
わたしの考えとは,基本的なところでは,とてもよく波長が合うのですが,ところどころでわたしの感覚器官では受け止められない世界にはみだして行ってしまいます。そこが,また,わたしにとってはとても面白いと思ったところです。言ってしまえば,そこが,シュタイナーの神秘主義的な発想と思考にもとづく一つの到達点なのだろう,とわたしは想像しています。
とにかく笠井ワールドを知るには絶好のテクストになっています。「ダンサーの<カラダ>とはなにか」ということに関心のある方は必読のテクストです。そして,科学主義にからめとられた身体論から抜け出すための一つの重要な示唆を提示している,と言っていいと思います。ただ一つ,わたしの不満は「エロティシズム」について語ろうとしない点です。その点,ジョルジュ・バタイユは丸裸の「人間」そのものを真っ正面に据えて,「人間とはなにか」を問い,『宗教の理論』を展開しています。もちろん,問題関心の持ち方が基本的に違うということが大前提となりますが・・・。
久しぶりに,いささか興奮する読書体験をさせてもらいました。ダンスに興味をお持ちの方には,お薦めです。
宇宙の感覚器官としての人間身体を問う。
たとえばミミズやバラの花や魚の,大地や海との一体的ありよう。これは人間には不可能である。自然としての身体を持ちながら。なぜだろう・・・人間身体と生命のありようを徹底考察する。
本書の帯に書かれているコピーです。上段が帯の表に,そして下段が帯の裏に書かれているものです。とくに,下段のコピーは,なんと不思議なことを言う人だろうか,と思って間違いありません。そのとおりの不思議な本なのですから。第一,『カラダという書物』というタイトルからして変です。「カラダ」は書物だ,と言うのですから。それに,身体のことを「カラダ」とカタカナ表記をするのも,この人独特の手法です。ふうつは,身体とか,肉体とか,漢字のイメージから解き放たれたいときに「からだ」とひらがな表記をします。が,そうではなくて「カラダ」です。
そして「人間身体」という言い方も笠井の独特の表記です。人間の身体でもなく,人間は身体である,でもなく「人間身体」です。この「人間身体」こそ笠井の追求したい最終ゴールではないか,というのがとりあえずのわたしの読解です。もちろん,笠井の最大のテーマは「ダンサーにとって<カラダ>とは何か」にあります。しかし,その<カラダ>とは「宇宙の感覚器官としての人間身体」そのものでもあります。ですから,「人間身体」を究めないとダンサーとしての笠井は納得しないのだ,とわたしは考えています。
じつは,わたしも「スポーツする身体とはなにか」という問いを,すでに長い間,問いつづけてきています。その営みの必然的な帰結として「舞い踊る身体とはなにか」という問いが,その根底にあります。別の言い方をすれば,「舞踊する身体」「踊る身体」「舞う身体」「ダンスする身体」という表記も必要に応じて用いたりしています。ですから,わたしも「からだ」という表記を用いることはあります。しかし,「カラダ」とカタカナ表記をしたことはありません。
ここに,じつは,笠井とわたしとの「身体論」を語るときの基本的な姿勢の違いがあります。笠井はあくまでもダンサーです。そして,そのダンサーにとって<カラダ>とは何か,と問います。つまり,ダンサーである「わたしの身体」は,わたしの「身体」でもなんでもない,単なる<カラダ>だというわけです。そういう<カラダ>とはなにか,それをいかに読み解くか,そこをダンサーは避けてとおることはできない,と笠井は主張します。だから,「カラダという書物」だ,という次第です。
それに引き換え,わたしの「身体論」は,まことに残念ながら,あくまでも抽象論です。言ってしまえば,当事者としての身体論ではありません。若干あるとすれば,若いころに熱中した体操競技をする身体とはなにであったのか,というような経験にできるだけ即して考えようとする程度です。ですから,むしろ,じっさいに生きる人間にとって「スポーツする身体」とはなにか,というような問いになっていきます。これはこれで一つの「身体論」のスタンスであっていい,とわたしは考えています。
そういうわたしのスタンスから,このテクストを読むと,いいなぁ,うらやましいなぁ,とさえ思うほどです。なぜなら,そこには,たえず踊りながら,ダンサーであるおれにとって,このとらえどころのない<カラダ>とはなにか,という対話がつねにあるということです。そして,その次元で納得のできることと,納得できないこととの「境界領域」が,たぶん,ダンサーである笠井の<カラダ>のなかで渦巻いているのだろうと思います。この点が,わたしには欠落しています。残念ながら。
さて,話を少し前にもどします。そして,帯の下段のコピーについて,少しだけ私見を述べておきたいと思います。このコピーは,わたしの感覚器官からすると,「あっ,ジョルジュ・バタイユだ」と反応してしまいます。バタイユは「水のなかに水があるように存在する」,それが自然存在というものであり,動物や植物や鉱物はそのようにして存在している,といいます。しかし,人間は,動物性から離脱してしまったために,残念ながら,どう頑張ってみても「ミミズやバラの花や魚」のように存在することはできません。「自然としての身体を持ちながら」。という具合にみごとに一致していきます。
しかし,笠井はバタイユの世界もしっかりと視野のうちに収めながら,シュタイナーの神智学・オイリュトミーの世界に没入していきます。断るまでもなく,その前に,笠井がダンサーに目覚めるきっかけを与えたのは大野一雄であり,土方巽です。いわゆる「舞踏」ということばが立ち上がるころに,18歳で大野一雄の手ほどきを受けます。
その時のことを笠井はつぎのように回想しています。
「鉛の眼で世界をみろ」,「そこに見えてきたものを踊ってみろ」と言われ衝撃を受けた,と。たぶん,そのときから,まったく意のままにならない,わたしであってわたしではない<カラダ>を読み解く作業がはじまったのだろうと思います。それは,土方巽との出会いによって,さらに深められていったのだろうと思います。
笠井によれば,大野一雄は,ある日,突然,眼の前に現れたコオロギをみて「あっ,わたしのお母さん」と言って,すぐに踊りはじめたといいます。このあたりにも笠井がわざわざ<カラダ>という表記をし,特別の概念付与をしていることの謎を解く鍵があるかもしれません。しかし,それを最終的に決定づけたものはシュタイナーのオイリュトミーだったと言っていいでしょう。
その笠井が説くところの<カラダ>についての深い考察がこの本のなかにはぎっしりと詰まっています。それは,ひとくちに言って,驚くべき内容になっています。おそらく,このような「身体論」を提示した人は,管見ながら,わたしは知りません。(もちろん,大野一雄や土方巽の書いたものとのシンパシーはつよく感じますが,そこにシュタイナーの神智学が入り込みます。この視点が笠井独自のスタンスだと,わたしは理解しています。)
わたしの考えとは,基本的なところでは,とてもよく波長が合うのですが,ところどころでわたしの感覚器官では受け止められない世界にはみだして行ってしまいます。そこが,また,わたしにとってはとても面白いと思ったところです。言ってしまえば,そこが,シュタイナーの神秘主義的な発想と思考にもとづく一つの到達点なのだろう,とわたしは想像しています。
とにかく笠井ワールドを知るには絶好のテクストになっています。「ダンサーの<カラダ>とはなにか」ということに関心のある方は必読のテクストです。そして,科学主義にからめとられた身体論から抜け出すための一つの重要な示唆を提示している,と言っていいと思います。ただ一つ,わたしの不満は「エロティシズム」について語ろうとしない点です。その点,ジョルジュ・バタイユは丸裸の「人間」そのものを真っ正面に据えて,「人間とはなにか」を問い,『宗教の理論』を展開しています。もちろん,問題関心の持ち方が基本的に違うということが大前提となりますが・・・。
久しぶりに,いささか興奮する読書体験をさせてもらいました。ダンスに興味をお持ちの方には,お薦めです。
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