ことしも残りわずかになってきました。毎年のことながら,時間の経つのは早いものだと,いまではあきらめ顔。わたしの人生もいつのまにか第四コーナーを回って,いよいよホームストレッチにさしかかっている。最後の仕上げの時期というべきか。
そんな中で,明日(20日)から神戸市外国語大学の集中講義がはじまる。早朝の午前8時50分からはじまるので,今日(19日)のうちに神戸に入って,スタンバイ。講義題目は「スポーツ文化論」。用いるテクストは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』。
すでに,2年にわたって,このテクストの「スポーツ文化論」的読解に取り組んでいる。だから,最初から参加している学生さんたちにとっては,すでに,お馴染みのテーマ。しかし,初めての学生さんにとっては,きわめて難解。でも,授業が終ったときには,かならず,なんらかのお土産をもって帰ってもらえるように,こちらも必死。
取り上げる具体的な内容の一部は,すでに,このブログをとおして「公開」しているので,そちらを参照していただきたい。このバタイユのテクストを用いての集中講義はこれが最後となるので,今回は「総ざらい篇」と称して,とくにポイントとなるところを取り上げてみたいと思う。
その最大のポイントは以下のとおり。
人類が動物性の世界から離脱し,人間性の世界に移行するときに,いったい,なにが起きたのか。ひとつは,もの=客体(オブジェ)という他者の発見によって自己が覚醒する,そのプロセスの意味するところを考えること。ふたつには,やがて,自己意識が立ち上がり,理性に目覚めるとき,自己の内なる他者=動物性をどのように止揚しようとしたのか。みっつには,このとき「宗教的なるもの」が同時に立ち上がるのだが,そのことと「スポーツ的なるもの」は表裏の関係にあったのではないか,というわたしの仮説を深めること。つまり,スポーツの原初の姿(起源)を確認すること。それは,祝祭的な時空間とはなにか,を考えることでもある。よっつには,人間の内なる他者=動物性と向き合っていたはずの理性が,いつしか一人歩きをはじめ,「狂気」と化していくのはなぜか,を考えること。科学至上主義ともいうべき理性のたどりついた典型例として「原発」がある。いつつには,スポーツ文化もまた,同じ進展をみるのは,なぜか,と問うこと。たとえば,1000分の1秒を計測することの意味を問うこと。むっつには,21世紀を生きる人間にとって,とりわけ,「3・11」以後を生きるわたしたちにとって「スポーツ」とはなにか,を考えること。
とまあ,なかなか欲の深いことを考えている。しかし,期せずして「3・11」に遭遇した,この年の最後に取り組む集中講義としては,ここまで踏み込まないことには無意味ではないか,とわたしは考えている。なぜなら,これもまた,「いま・ここ」を生きるわたしたちの,避けてとおることのできない重要なテーマであるからだ。その意味では,世界の最先端を突き破る,まったく新しい「スポーツ文化論」の展開を試みようとしている,と言っても過言ではない。日本はいま,あらゆる意味で,世界の最先端をいく「実験国家」でもあるのだ。
いま,スポーツ文化を考えることは,「世界」を考えることでもある。しかも,スポーツ文化は新しい「世界」を切り拓いていく尖兵でもあるのだ。このことを考えるためのヒントが,テクストである『宗教の理論』のなかには満載されている,というのがわたしの読解である。
さて,この課題がどこまで達成できるか,楽しみである。おそらく,大学での集中講義という形式で,このようなチャレンジができるのは,これが最後のチャンスでもあろう。と思うとますます気合が入ってくる。また,新たな発見があるのではなかろうか,という期待も大きい。
今回は,このテクストのほかに,DVDをふたつ用意している。ひとつは,『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ原作)である。「人間の生を理解することもなく,みんな終ってしまう」という主人公のキャシー・Hのセリフがわたしの頭から離れない。人間が生きるとはどういうことなのか,という根源的な問いを,カズオ・イシグロはわたしたちに投げかけてくる。ふたつには,『けんちく体操』(米山勇,ほか)。ついこの間(15日の夜),この人たちのワークショップに参加し,そのあとのトークショウにも加わっておしゃべりをさせていただいた。そのお蔭で,また,あらたな感慨(発見)をもつことができた。しかし,そのときは時間切れで話すことができなかったことがらについて,理論仮説を構築してみたいと考えている。たとえば,事物と化した人間が,これからさき,なにを目指そうとしているのか,しかも,「体操」をとおして。
三日間の集中講義のあとの,23日には「ISC・21」12月神戸例会が待っている。いつもの研究者仲間と意見を交わすことができる。こちらもまた,楽しみのひとつ。そのあとには,「忘年会」。ことしの「締め」となる。
まずは,体調を整えて,万全の体制で臨むこと。
行って参ります。
そんな中で,明日(20日)から神戸市外国語大学の集中講義がはじまる。早朝の午前8時50分からはじまるので,今日(19日)のうちに神戸に入って,スタンバイ。講義題目は「スポーツ文化論」。用いるテクストは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』。
すでに,2年にわたって,このテクストの「スポーツ文化論」的読解に取り組んでいる。だから,最初から参加している学生さんたちにとっては,すでに,お馴染みのテーマ。しかし,初めての学生さんにとっては,きわめて難解。でも,授業が終ったときには,かならず,なんらかのお土産をもって帰ってもらえるように,こちらも必死。
取り上げる具体的な内容の一部は,すでに,このブログをとおして「公開」しているので,そちらを参照していただきたい。このバタイユのテクストを用いての集中講義はこれが最後となるので,今回は「総ざらい篇」と称して,とくにポイントとなるところを取り上げてみたいと思う。
その最大のポイントは以下のとおり。
人類が動物性の世界から離脱し,人間性の世界に移行するときに,いったい,なにが起きたのか。ひとつは,もの=客体(オブジェ)という他者の発見によって自己が覚醒する,そのプロセスの意味するところを考えること。ふたつには,やがて,自己意識が立ち上がり,理性に目覚めるとき,自己の内なる他者=動物性をどのように止揚しようとしたのか。みっつには,このとき「宗教的なるもの」が同時に立ち上がるのだが,そのことと「スポーツ的なるもの」は表裏の関係にあったのではないか,というわたしの仮説を深めること。つまり,スポーツの原初の姿(起源)を確認すること。それは,祝祭的な時空間とはなにか,を考えることでもある。よっつには,人間の内なる他者=動物性と向き合っていたはずの理性が,いつしか一人歩きをはじめ,「狂気」と化していくのはなぜか,を考えること。科学至上主義ともいうべき理性のたどりついた典型例として「原発」がある。いつつには,スポーツ文化もまた,同じ進展をみるのは,なぜか,と問うこと。たとえば,1000分の1秒を計測することの意味を問うこと。むっつには,21世紀を生きる人間にとって,とりわけ,「3・11」以後を生きるわたしたちにとって「スポーツ」とはなにか,を考えること。
とまあ,なかなか欲の深いことを考えている。しかし,期せずして「3・11」に遭遇した,この年の最後に取り組む集中講義としては,ここまで踏み込まないことには無意味ではないか,とわたしは考えている。なぜなら,これもまた,「いま・ここ」を生きるわたしたちの,避けてとおることのできない重要なテーマであるからだ。その意味では,世界の最先端を突き破る,まったく新しい「スポーツ文化論」の展開を試みようとしている,と言っても過言ではない。日本はいま,あらゆる意味で,世界の最先端をいく「実験国家」でもあるのだ。
いま,スポーツ文化を考えることは,「世界」を考えることでもある。しかも,スポーツ文化は新しい「世界」を切り拓いていく尖兵でもあるのだ。このことを考えるためのヒントが,テクストである『宗教の理論』のなかには満載されている,というのがわたしの読解である。
さて,この課題がどこまで達成できるか,楽しみである。おそらく,大学での集中講義という形式で,このようなチャレンジができるのは,これが最後のチャンスでもあろう。と思うとますます気合が入ってくる。また,新たな発見があるのではなかろうか,という期待も大きい。
今回は,このテクストのほかに,DVDをふたつ用意している。ひとつは,『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ原作)である。「人間の生を理解することもなく,みんな終ってしまう」という主人公のキャシー・Hのセリフがわたしの頭から離れない。人間が生きるとはどういうことなのか,という根源的な問いを,カズオ・イシグロはわたしたちに投げかけてくる。ふたつには,『けんちく体操』(米山勇,ほか)。ついこの間(15日の夜),この人たちのワークショップに参加し,そのあとのトークショウにも加わっておしゃべりをさせていただいた。そのお蔭で,また,あらたな感慨(発見)をもつことができた。しかし,そのときは時間切れで話すことができなかったことがらについて,理論仮説を構築してみたいと考えている。たとえば,事物と化した人間が,これからさき,なにを目指そうとしているのか,しかも,「体操」をとおして。
三日間の集中講義のあとの,23日には「ISC・21」12月神戸例会が待っている。いつもの研究者仲間と意見を交わすことができる。こちらもまた,楽しみのひとつ。そのあとには,「忘年会」。ことしの「締め」となる。
まずは,体調を整えて,万全の体制で臨むこと。
行って参ります。
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