神戸市外国語大学での集中講義もはや二日目を終了。バタイユの『宗教の理論』をスポーツ文化論的に読解するというテーマでの講義も,これで三期目に入っているので,学生さんの反応がすこぶるいい。当然のことながら,わたしも気合が入ってくる。それに応えるようにして学生さんも熱が入ってくる。そんな相乗効果もあって,充実した時間が過ぎていく。惚けかけた頭が,いつのまにか,大いに活性化して,新たな発見がつづく。嬉しいかぎりである。
加えて,今日(21日)の二日目は,教室に行ってみると,モンゴルのナーダム祭の研究者である井上邦子さんがだれよりも早く到着して待っていてくれた。バタイユのいう「消尽」「供犠」「贈与」という考え方について,理解を深めたいという。そういうことであれば,大歓迎。ならば,というわけで,学生さんが集まる前から,早速,ふたりだけの話がはじまり,知らぬ間に熱が入ってくる。
気がつけば,学生さんは全員集まっていて,始業の時間もとっくに過ぎている。あわてて,井上さんを紹介しながら,話のつづきのまま,授業に入る。まずは,わたしの方からモンゴルの競馬について問いをかける。井上さんが,丁寧に,初めての学生さんたちにもわかりやすく説明をしてくれる。それを聞きながら,わたしはバタイユ的に解釈すると,どうなるのだろうかと考える。
井上さんのお話の概要は以下のとおり。
一番はじめは,野生の馬の捕獲からはじまり,それを飼育する。モンゴルでは,ゲル(住まい)の近くに放牧して飼育する。牡馬は種牡馬1頭を残して,全部,去勢する。牝馬はそのまま育てて,子どもを産ませる。競馬で走る馬は去勢された牡馬から選ばれる。選ばれた牡馬は,まずは,ゲルの近くの杭に「つながれる」。この牡馬を杭につなぐ人のことをオヤチと呼ぶ。こうして,つながれた牡馬は「調教」に入る。調教は1~2週間という短い期間に行われる。放牧してあった牡馬を,競馬馬に仕立てあげるのは容易なことではない。だから,特別な馬として聖別され,徹底した調教が行われる。まずは,躾け。人間の指示に素直に従うように。そして,つぎは,走る距離を伸ばしていく。やがて,人馬一体となるところまで調教する。この間,ラマ教のお経を,暇さえあれば聴かせる。競馬馬は全身を青い絹の布で磨き上げられ,尻尾は工夫して編み上げられる。こうして「聖別」された競馬馬へと仕立てあげられていく。この競馬馬には子どもが乗って,30㎞,50㎞という長い距離を走る。まずは,ゴール地点に集合してから,スタート地点まで移動して,それからスタートする。したがって,結果的には,じっさいの距離の倍を走ることになる。途中で疲れ切った馬は倒れてしまったり,死んでしまうこともある。あるいは,子どもが振り落とされてしまうこともある。馬も子どもも,死と隣り合わせという,ある種の極限状態に向き合うことになる。
これをバタイユ的に読み解くとどういうことになるのか。
動物性の世界を生きていた野生の馬は,捕獲され飼育されることによって人間の「事物」と化す。しかも,牡馬は去勢されることによって,「事物」としてのレベルを高める。さらに,競馬馬として選ばれ「つながれ」たときから,特別の存在として神聖視され,ますます「事物」としてのレベルを高めていくことになる。そして,事物化の極限ともいうべき調教をとおして人馬一体となることを目指す。こうして,人間もまた「事物化」していく。のみならず,人間はひたすらラマ教のお経を唱える。しかも,それを馬の耳に向って唱える。まさに「馬の耳に念仏」である。そこまでして,調教され,神聖視され,人馬一体となった競馬馬を,場合によっては「死ぬ」(「倒れる」)かもしれない長い距離を,馬に子どもを乗せて走らせる。これは,なにを隠そう,「消尽」以外のなにものでもないではないか。しかも,「供犠」そのものではないか。そして,それは広義の「贈与」にも相当するのではないか。
こうした経緯について,じっさいの授業の中では,微に入り細にわたって,可能なかぎりバタイユの概念をもちいて言説化を試みてみた。井上さんも協力してくれて,これまでには考えたこともない,バタイユ的「知」の地平に「初めて」立つことができた。なんと面白い風景がそこに広がっていることか。こんな僥倖にめぐまれながら,至福のときを過ごす。
ほんとうは,もっと詳細に記述しておきたかったことではあるが,時間切れのため,とりあえず,ここまでとする。いずれまた,きちんと整理してみたいと思う。
加えて,今日(21日)の二日目は,教室に行ってみると,モンゴルのナーダム祭の研究者である井上邦子さんがだれよりも早く到着して待っていてくれた。バタイユのいう「消尽」「供犠」「贈与」という考え方について,理解を深めたいという。そういうことであれば,大歓迎。ならば,というわけで,学生さんが集まる前から,早速,ふたりだけの話がはじまり,知らぬ間に熱が入ってくる。
気がつけば,学生さんは全員集まっていて,始業の時間もとっくに過ぎている。あわてて,井上さんを紹介しながら,話のつづきのまま,授業に入る。まずは,わたしの方からモンゴルの競馬について問いをかける。井上さんが,丁寧に,初めての学生さんたちにもわかりやすく説明をしてくれる。それを聞きながら,わたしはバタイユ的に解釈すると,どうなるのだろうかと考える。
井上さんのお話の概要は以下のとおり。
一番はじめは,野生の馬の捕獲からはじまり,それを飼育する。モンゴルでは,ゲル(住まい)の近くに放牧して飼育する。牡馬は種牡馬1頭を残して,全部,去勢する。牝馬はそのまま育てて,子どもを産ませる。競馬で走る馬は去勢された牡馬から選ばれる。選ばれた牡馬は,まずは,ゲルの近くの杭に「つながれる」。この牡馬を杭につなぐ人のことをオヤチと呼ぶ。こうして,つながれた牡馬は「調教」に入る。調教は1~2週間という短い期間に行われる。放牧してあった牡馬を,競馬馬に仕立てあげるのは容易なことではない。だから,特別な馬として聖別され,徹底した調教が行われる。まずは,躾け。人間の指示に素直に従うように。そして,つぎは,走る距離を伸ばしていく。やがて,人馬一体となるところまで調教する。この間,ラマ教のお経を,暇さえあれば聴かせる。競馬馬は全身を青い絹の布で磨き上げられ,尻尾は工夫して編み上げられる。こうして「聖別」された競馬馬へと仕立てあげられていく。この競馬馬には子どもが乗って,30㎞,50㎞という長い距離を走る。まずは,ゴール地点に集合してから,スタート地点まで移動して,それからスタートする。したがって,結果的には,じっさいの距離の倍を走ることになる。途中で疲れ切った馬は倒れてしまったり,死んでしまうこともある。あるいは,子どもが振り落とされてしまうこともある。馬も子どもも,死と隣り合わせという,ある種の極限状態に向き合うことになる。
これをバタイユ的に読み解くとどういうことになるのか。
動物性の世界を生きていた野生の馬は,捕獲され飼育されることによって人間の「事物」と化す。しかも,牡馬は去勢されることによって,「事物」としてのレベルを高める。さらに,競馬馬として選ばれ「つながれ」たときから,特別の存在として神聖視され,ますます「事物」としてのレベルを高めていくことになる。そして,事物化の極限ともいうべき調教をとおして人馬一体となることを目指す。こうして,人間もまた「事物化」していく。のみならず,人間はひたすらラマ教のお経を唱える。しかも,それを馬の耳に向って唱える。まさに「馬の耳に念仏」である。そこまでして,調教され,神聖視され,人馬一体となった競馬馬を,場合によっては「死ぬ」(「倒れる」)かもしれない長い距離を,馬に子どもを乗せて走らせる。これは,なにを隠そう,「消尽」以外のなにものでもないではないか。しかも,「供犠」そのものではないか。そして,それは広義の「贈与」にも相当するのではないか。
こうした経緯について,じっさいの授業の中では,微に入り細にわたって,可能なかぎりバタイユの概念をもちいて言説化を試みてみた。井上さんも協力してくれて,これまでには考えたこともない,バタイユ的「知」の地平に「初めて」立つことができた。なんと面白い風景がそこに広がっていることか。こんな僥倖にめぐまれながら,至福のときを過ごす。
ほんとうは,もっと詳細に記述しておきたかったことではあるが,時間切れのため,とりあえず,ここまでとする。いずれまた,きちんと整理してみたいと思う。
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