2011年12月9日金曜日

バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・「欲望」その2.

コジェーヴの引用文の読解をつづけよう。

人間は「彼の」欲望のうちに,かつ欲望によって,あるいはむしろその欲望として──自分自身に対しても,また他者に対しても──,自らを一個の<自己>として,すなわち<非-自己>とは本質的に異なっており,かつ根底的にそれと対立するような<自己>として構成し,啓示するのである。<自己>(人間的な)とは,一個の<欲望>の──あるいは<欲望>そのものの──<自己>である。

人間が<自己>を啓示する,という。啓示するということは,人間の意志によってなされることではない。もちろん,意識にものぼらない。むしろ,神の領域に属するというべきだろう。言ってしまえば,造物主の意のままになるもの,ということになろう。欲望とはそういうレベルの話なのである。人間は,その造物主の手のうちにある「欲望のうちに」「欲望によって」「欲望として」<自己>を構成し,啓示する,という。だから,人間的な<自己>とはいえ,それは一個の<欲望>の<自己>であり,<欲望>そのものの<自己>である,という。

ここでコジェーヴが指摘していることは,わたしたちの常識として理解している自己(意識,認識)を根底かひっくり返す力をもっている。すなわち,人間の意のままにはならないレベルの欲望によって,非-自己が立ち現れ,その非-自己の存在によって,それとは本質的に異なる,しかも根底的に対立するような自己がはじめて出現する(啓示する)というのである。自己とは,最初から,そのように運命づけられている。あるいは,自己とは,所詮,その程度のものでしかない,ということをしっかりと頭に刻んでおけ,とでもいうかのように・・・・。

つづけてコジェーヴはつぎのように言う。
人間の<存在>そのもの,つまり自己を意識している存在とは,したがって<欲望>を当然のものとして含んでおり,またその前提として仮定している。だから人間的現実とは一つの生物学的現実の内部,また動物的な生の内部においてしか構成されず,維持されることはできないのである。しかし動物的な<欲望>が<自己意識>の必要な条件であるとしても,それはその十分な条件ではない。この欲望はそれだけでは,<自己感情>しか構成しないのである。

人間の存在とは,自己を意識している存在である,と断わった上で,それでもなお人間の存在は<欲望>を含んでおり,人間の存在の前提として<欲望>を仮定している,という。つまり,自己を意識する人間の存在であっても,なお神の領域である<欲望>から解き放たれているわけではない,とクギを挿している。ここからあとは,そのまま読み取ることができるだろう。「だから人間的現実とは一つの生物学的現実の内部,また動物的な生の内部においてしか構成されず,維持されることはできないのである」。言い換えれば,人間的な生はどこまで行っても動物的な生の内部から解き放たれることはない,と。

このあとも,そんなに難解であるわけではない。自己意識(これはヘーゲルのいう意味での自己意識と理解していいだろう)を人間が獲得するには,動物的な<欲望>が必要条件ではあっても,十分条件ではない,という。なぜなら,動物的な<欲望>だけでは,<自己感情>しか構成しないからだ,という。つまり,人間的な自己意識を生み出す引き金となるのは動物的な欲望であるが,それだけだとしたら,それは自己感情しか生み出さない,というのである。

では,いったい,人間的な自己意識はどのようにして立ち現れてくるのであろうか。
このつづきは,次回のブログで,考えることにしよう。



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