オランダのヘーレンフェインで開催されたスピードスケートのワールドカップ第3戦(12月3日)で,加藤条治選手が2日,つづけて第2位に入り,ようやく復活のきざしがみえてきたようだ。それに引き換え,長年のよきライバルである長島圭一郎選手は自分のスケートのブレードで足首を切るという,滅多にないハプニングに泣いた。日本の誇るスピードスケート男子500mの二枚看板には大いに頑張ってもらいたいところ。
この二人は,2010年に開催されたバンクーバーのオリンピック冬季大会の折にも,競り合っておおいに気を吐いた。その結果,金メダルは韓国のイム・テヒョンに奪われたものの,長島が銀メダルを,加藤が銅メダルを獲得した。このときのタイムを,ある必要があって,比較検討してみたことがある。そこから,とても面白いことがみえてきた。
ある必要があって,というのは,2010年5月に開催された日本記号論学会第30回大会(「判定」の記号論)の〔セッション3〕の話題提供者としてお誘いを受け,近代スポーツの終焉?─判定の変容,裁かれる身体の現在─,というテーマでお話をさせていただいたときのことである。そのとき,いろいろ考えた末に,ちょうどその年の2月に開催された冬季オリンピックのスピードスケートで,史上初めて1000分の1秒を計測するということがあったので,これを取り上げることにした。
つまり,1000分の1秒まで計測して優劣の「判定」をくだすという世界は,いったい,なにを意味しているのか,と問いたかったからである。近代スポーツ競技の競争原理がますます過剰に機能しはじめるとともに,スポーツの世界はいつのまにか異次元の世界に足を踏み入れてしまったのではないか,その世界は,すでに,神の領域ではないのか,とわたし自身はかなり以前から考えていた。そのサンプルとして,スピードスケートの世界の計測の方法に注目してみた,という次第である。
1000分の1秒の世界。スピードスケート・男子500mの優勝タイムは35秒前後なので,そこを基準にして秒速を計算してみた。端数は四捨五入して,その結果をみると,驚くべき世界がみえてくる。男子500mの秒速は14.3m。したがって,10分の1秒では1m43cm,100分の1秒では14cm,1000分の1秒では1cm4mm,ということになる。
秒速14mでゴールに飛び込んでくる二人の選手の,1000分の1秒差,距離にして1cm4mmの差は,どう考えてみても人間の眼にはみえない。100分の1秒差の14cm差も,おそらく,人間の眼には判定不能だろう。それを最先端のテクノロジーの力を借りて,あえて優劣の差をつける,この行為はいったいなにを意味しているのだろうか,というのがわたしの問いであり,日本記号論学会のみなさんとともに考えてもらいたかったポイントである。
で,2010年のバンクーバー大会での記録を紹介しておくと,以下のとおりである。
金:イム・テヒョン(韓国)1分09秒82(34秒923,34秒906)
銀:長島圭一郎(日本)1分09秒98(35秒108,34秒876)
銅:加藤条治(日本)1分10秒01(34秒937,35秒076)
説明するまでもなく,この大会では,2回のトライアルを1000分の1秒まで計測し,それを合計して1000分の1秒のところを四捨五入して,100分の1秒までの記録で順位を「判定」し,その記録を正式記録として公表した。この方式は,この大会が初めてのことであった。だから,多くの人びとが,この計測の方法には注目した。
この結果,どういうことがみえてきたか。2回のトライアルの記録をみると,第一回目のタイムで順位を判定すると,イム・テヒョン,加藤条治,長島圭一郎の順になり,第二回目のタイムで順位を判定すると,長島圭一郎,イム・テヒョン,加藤条治の順になる。しかも,最高タイムを出したのは長島圭一郎だ。
もし,大会ルールが別のものであったら・・・と考えると,この判定の方法は不思議なシステムになっていることがわかる。安定した実力を重視する,というのがこの大会でのコンセプトだったのだが,2回のトライアルでの自己ベストで順位を決める,という方法も選択肢のひとつとして存在する。まあ,それまでの過去のいきさつもあって,判定の方法は,さまざまに変化してきている。
そこで問題になるのは,判定を合理化する(正当化する)ためのコンセプトである。だれのための判定なのか,なんのための判定なのか,という問いが新たに立ち上がってくる。そして,最終的には,スピードスケートとはなにか,という問いに至る。
わたしの問いは,人間の眼にみえない世界をテクノロジーの力に頼って,優劣の判定をすることの意味はどこにあるのか,というものである。そこは,もはや,神の領域ではないのか。その世界にテクノロジーの力を借りて踏み込んでいくことの意味を問いたいのである。そして,それに応答することが,たぶん,「スポーツとはなにか」という最終的な問いの応答にもつながっていく,とわたしは考えている。
つまり,生身のからだを生きる人間にとって「スポーツ」とはなにか。
スピードスケートの世界は,すでに,この問いからは無関係のところにはみ出してしまっているのではないのか。
ここからさきの議論がじつはとても面白いのだが,今回はここまでとしておく。
この二人は,2010年に開催されたバンクーバーのオリンピック冬季大会の折にも,競り合っておおいに気を吐いた。その結果,金メダルは韓国のイム・テヒョンに奪われたものの,長島が銀メダルを,加藤が銅メダルを獲得した。このときのタイムを,ある必要があって,比較検討してみたことがある。そこから,とても面白いことがみえてきた。
ある必要があって,というのは,2010年5月に開催された日本記号論学会第30回大会(「判定」の記号論)の〔セッション3〕の話題提供者としてお誘いを受け,近代スポーツの終焉?─判定の変容,裁かれる身体の現在─,というテーマでお話をさせていただいたときのことである。そのとき,いろいろ考えた末に,ちょうどその年の2月に開催された冬季オリンピックのスピードスケートで,史上初めて1000分の1秒を計測するということがあったので,これを取り上げることにした。
つまり,1000分の1秒まで計測して優劣の「判定」をくだすという世界は,いったい,なにを意味しているのか,と問いたかったからである。近代スポーツ競技の競争原理がますます過剰に機能しはじめるとともに,スポーツの世界はいつのまにか異次元の世界に足を踏み入れてしまったのではないか,その世界は,すでに,神の領域ではないのか,とわたし自身はかなり以前から考えていた。そのサンプルとして,スピードスケートの世界の計測の方法に注目してみた,という次第である。
1000分の1秒の世界。スピードスケート・男子500mの優勝タイムは35秒前後なので,そこを基準にして秒速を計算してみた。端数は四捨五入して,その結果をみると,驚くべき世界がみえてくる。男子500mの秒速は14.3m。したがって,10分の1秒では1m43cm,100分の1秒では14cm,1000分の1秒では1cm4mm,ということになる。
秒速14mでゴールに飛び込んでくる二人の選手の,1000分の1秒差,距離にして1cm4mmの差は,どう考えてみても人間の眼にはみえない。100分の1秒差の14cm差も,おそらく,人間の眼には判定不能だろう。それを最先端のテクノロジーの力を借りて,あえて優劣の差をつける,この行為はいったいなにを意味しているのだろうか,というのがわたしの問いであり,日本記号論学会のみなさんとともに考えてもらいたかったポイントである。
で,2010年のバンクーバー大会での記録を紹介しておくと,以下のとおりである。
金:イム・テヒョン(韓国)1分09秒82(34秒923,34秒906)
銀:長島圭一郎(日本)1分09秒98(35秒108,34秒876)
銅:加藤条治(日本)1分10秒01(34秒937,35秒076)
説明するまでもなく,この大会では,2回のトライアルを1000分の1秒まで計測し,それを合計して1000分の1秒のところを四捨五入して,100分の1秒までの記録で順位を「判定」し,その記録を正式記録として公表した。この方式は,この大会が初めてのことであった。だから,多くの人びとが,この計測の方法には注目した。
この結果,どういうことがみえてきたか。2回のトライアルの記録をみると,第一回目のタイムで順位を判定すると,イム・テヒョン,加藤条治,長島圭一郎の順になり,第二回目のタイムで順位を判定すると,長島圭一郎,イム・テヒョン,加藤条治の順になる。しかも,最高タイムを出したのは長島圭一郎だ。
もし,大会ルールが別のものであったら・・・と考えると,この判定の方法は不思議なシステムになっていることがわかる。安定した実力を重視する,というのがこの大会でのコンセプトだったのだが,2回のトライアルでの自己ベストで順位を決める,という方法も選択肢のひとつとして存在する。まあ,それまでの過去のいきさつもあって,判定の方法は,さまざまに変化してきている。
そこで問題になるのは,判定を合理化する(正当化する)ためのコンセプトである。だれのための判定なのか,なんのための判定なのか,という問いが新たに立ち上がってくる。そして,最終的には,スピードスケートとはなにか,という問いに至る。
わたしの問いは,人間の眼にみえない世界をテクノロジーの力に頼って,優劣の判定をすることの意味はどこにあるのか,というものである。そこは,もはや,神の領域ではないのか。その世界にテクノロジーの力を借りて踏み込んでいくことの意味を問いたいのである。そして,それに応答することが,たぶん,「スポーツとはなにか」という最終的な問いの応答にもつながっていく,とわたしは考えている。
つまり,生身のからだを生きる人間にとって「スポーツ」とはなにか。
スピードスケートの世界は,すでに,この問いからは無関係のところにはみ出してしまっているのではないのか。
ここからさきの議論がじつはとても面白いのだが,今回はここまでとしておく。
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