12月1日に全日本仏教会は理事会を開き,「原発によらない生き方を求めて」という宣言文を採択した。その要旨が,今日(11日)の『東京新聞』に掲載されたので,紹介しておきたい。
「東京電力福島第一原発事故による放射性物質の拡散により,多くの人々が住み慣れた故郷を追われ,避難生活を強いられている。乳幼児や児童をもつ多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被害を心配している。
私たち全日本仏教会は『いのち』を脅かす原発への依存を減らし,原発によらない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指す。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく,個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければならない。
自身の生活のあり方を見なおす中で,過剰な物質的欲望から脱し,足ることを知り,自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし,一人一人の『いのち』が守られる社会を築くことを宣言する。」
以上は「要旨」だということなので,実際の宣言文はもっと長いものになっているはず。宣言文の全文は全日本仏教会のホームページでも開けばみつかると思う。あとで,調べてみようと思う。
いずれにしても,全日本仏教会が「脱原発依存」に踏み切った決断にこころからのエールを送りたい。わたしも道元禅師の教えに帰依する者の端くれにいるひとりとして(別に僧籍にある身ではない),ほっと安堵の胸をなでおろしている。堕落の一途をたどっていた仏教がようやく本来の姿を取り戻しつつある,という点で。
もともと,鎌倉時代の仏教をみればわかるように,仏教は世の中の諸悪に対して「闘う」姿勢をもっていた。日蓮などはその先頭に立っていた。法然・親鸞にしても,生身で生きる人間にとって仏教とはなにかと問いかけ,その到達点を身をもって提示していた。だから,多くの信者を獲得する力をもっていた。道元もまた,京の都を離れて,福井の地に修行道場を建て,「只管打坐」,ひたすら坐禅に励んだ。贅沢三昧の生き方をすることから遠く離れて,質素な生活の中から仏教の布教につとめている。偉大なる僧たちの共通項はここにある。
さきの宣言文要旨のなかで,仏教の本来のあり方に立ち返る姿勢が述べられていること,そして,そこから「脱原発依存」を説いている点が,わたしには救いとなった。いま,わたしの周囲でも威勢よく「脱原発」を叫ぶ人が少なくないが,自分の生活態度そのものへの反省もないまま,政府・東電を批判することのみに力をそそぐ人が多いのが気がかりでもある。やはり,「足るを知る」生活,「自然の前で謙虚である」生活,この実現のために「脱原発依存」が必要であることの自覚を,まずは身につけるべきだろう。
『いのち』ということばが二度でてくる。『いのち』を脅かす原発を排除し,『いのち』が守られる社会を築くこと。この単純明快な論理を,まだ,理解しようとしない人びとが少なくないことをこそ,わたしは憂慮する。というよりは,悲しい。情けないとも思う。どうして,こんなかんたんな道理を拒否できるのか,わたしには理解できない。
これは,イデオロギーでも,信仰でもない。生きものとして身を守る,もっとも基本的な本能のようなものだ。これを否定してしまうような「理性」とはいったい,なんのための「理性」なのだろうか,としみじみ考えてしまう。西谷修さんが『理性の探求』(岩波書店)のなかで,繰り返し訴えていることも,この狂気と化してしまった「理性」を取り除き,「いのち」を前提とした「理性」の復権を求めることにある,とわたしは受け止めている。そして,その根源をなす思想・哲学として,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(ちくま学芸文庫)がわたしの脳裏をかすめていく。
「いのち」との決別の仕方,「いのち」に向き合うスタンスのとり方,「いのち」を超越する方法,「いのち」のみつめ方(まなざし),「いのち」への接近の仕方,「いのち」との折り合いのつけ方,「いのち」のとりこみ方,などなど。バタイユの『宗教の理論』は,「いのち」と人間がどのように向き合ってきたのか,その折り合いのつけ方が,時代や社会によってどのように変化してきたか,をわたしたちに提示してくれる。
とりわけ,わたしが興味をもつのは,人間が,動物性の世界から抜け出し,人間性の世界を構築するときに,「いのち」とどのように向き合い,折り合いをつけようとしたのか,という点にある。このとき「理性」が次第にその姿を整えはじめるからだ。そのことと,「宗教的なるもの」の出現とは無縁ではない。しかも,この「宗教的なるもの」に付随するようにして「スポーツ的なるのも」の原初の姿が立ち現れる。つまり,スポーツのオリジンをここまで遡って考えてみたい,という次第である。
この問題については,20日(火)からはじまる神戸市外国語大学の集中講義で,徹底的にこだわって考えてみたいと思う。「脱原発依存」と「狂気と化した理性」と「1000分の1秒の世界」とは一直線に繋がる連鎖なのだ。この問題系を解く手がかりをバタイユの『宗教の理論』に求めよう,というのが集中講義の趣旨である。
もう時間が足りないが,全力で準備にとりかからなくては・・・。
「原発によらないスポーツのあり方を求めて」・・・・「21世紀スポーツ文化研究所」の重要なテーマの一つでもある。
「東京電力福島第一原発事故による放射性物質の拡散により,多くの人々が住み慣れた故郷を追われ,避難生活を強いられている。乳幼児や児童をもつ多くのご家族が子どもたちへの放射線による健康被害を心配している。
私たち全日本仏教会は『いのち』を脅かす原発への依存を減らし,原発によらない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指す。誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく,個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばなければならない。
自身の生活のあり方を見なおす中で,過剰な物質的欲望から脱し,足ることを知り,自然の前で謙虚である生活の実現にむけて最善を尽くし,一人一人の『いのち』が守られる社会を築くことを宣言する。」
以上は「要旨」だということなので,実際の宣言文はもっと長いものになっているはず。宣言文の全文は全日本仏教会のホームページでも開けばみつかると思う。あとで,調べてみようと思う。
いずれにしても,全日本仏教会が「脱原発依存」に踏み切った決断にこころからのエールを送りたい。わたしも道元禅師の教えに帰依する者の端くれにいるひとりとして(別に僧籍にある身ではない),ほっと安堵の胸をなでおろしている。堕落の一途をたどっていた仏教がようやく本来の姿を取り戻しつつある,という点で。
もともと,鎌倉時代の仏教をみればわかるように,仏教は世の中の諸悪に対して「闘う」姿勢をもっていた。日蓮などはその先頭に立っていた。法然・親鸞にしても,生身で生きる人間にとって仏教とはなにかと問いかけ,その到達点を身をもって提示していた。だから,多くの信者を獲得する力をもっていた。道元もまた,京の都を離れて,福井の地に修行道場を建て,「只管打坐」,ひたすら坐禅に励んだ。贅沢三昧の生き方をすることから遠く離れて,質素な生活の中から仏教の布教につとめている。偉大なる僧たちの共通項はここにある。
さきの宣言文要旨のなかで,仏教の本来のあり方に立ち返る姿勢が述べられていること,そして,そこから「脱原発依存」を説いている点が,わたしには救いとなった。いま,わたしの周囲でも威勢よく「脱原発」を叫ぶ人が少なくないが,自分の生活態度そのものへの反省もないまま,政府・東電を批判することのみに力をそそぐ人が多いのが気がかりでもある。やはり,「足るを知る」生活,「自然の前で謙虚である」生活,この実現のために「脱原発依存」が必要であることの自覚を,まずは身につけるべきだろう。
『いのち』ということばが二度でてくる。『いのち』を脅かす原発を排除し,『いのち』が守られる社会を築くこと。この単純明快な論理を,まだ,理解しようとしない人びとが少なくないことをこそ,わたしは憂慮する。というよりは,悲しい。情けないとも思う。どうして,こんなかんたんな道理を拒否できるのか,わたしには理解できない。
これは,イデオロギーでも,信仰でもない。生きものとして身を守る,もっとも基本的な本能のようなものだ。これを否定してしまうような「理性」とはいったい,なんのための「理性」なのだろうか,としみじみ考えてしまう。西谷修さんが『理性の探求』(岩波書店)のなかで,繰り返し訴えていることも,この狂気と化してしまった「理性」を取り除き,「いのち」を前提とした「理性」の復権を求めることにある,とわたしは受け止めている。そして,その根源をなす思想・哲学として,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(ちくま学芸文庫)がわたしの脳裏をかすめていく。
「いのち」との決別の仕方,「いのち」に向き合うスタンスのとり方,「いのち」を超越する方法,「いのち」のみつめ方(まなざし),「いのち」への接近の仕方,「いのち」との折り合いのつけ方,「いのち」のとりこみ方,などなど。バタイユの『宗教の理論』は,「いのち」と人間がどのように向き合ってきたのか,その折り合いのつけ方が,時代や社会によってどのように変化してきたか,をわたしたちに提示してくれる。
とりわけ,わたしが興味をもつのは,人間が,動物性の世界から抜け出し,人間性の世界を構築するときに,「いのち」とどのように向き合い,折り合いをつけようとしたのか,という点にある。このとき「理性」が次第にその姿を整えはじめるからだ。そのことと,「宗教的なるもの」の出現とは無縁ではない。しかも,この「宗教的なるもの」に付随するようにして「スポーツ的なるのも」の原初の姿が立ち現れる。つまり,スポーツのオリジンをここまで遡って考えてみたい,という次第である。
この問題については,20日(火)からはじまる神戸市外国語大学の集中講義で,徹底的にこだわって考えてみたいと思う。「脱原発依存」と「狂気と化した理性」と「1000分の1秒の世界」とは一直線に繋がる連鎖なのだ。この問題系を解く手がかりをバタイユの『宗教の理論』に求めよう,というのが集中講義の趣旨である。
もう時間が足りないが,全力で準備にとりかからなくては・・・。
「原発によらないスポーツのあり方を求めて」・・・・「21世紀スポーツ文化研究所」の重要なテーマの一つでもある。
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