2011年12月29日木曜日

カズオ・イシグロが『わたしを離さないで』に仕掛けた2重3重の罠を読み解く。

少し前に,映画『わたしを離さないで』のDVD版についての短い評を書いてくれ,という依頼があった。その評の冒頭に「出自の明らかでない子どもたち」と書いたところ,この映画に登場する子どもたちはみんなクローンなので,この書き出しは誤解を招きやすいから一考を要す,という編集者からのコメントが入った。

わたしの記憶では,カズオ・イシグロは原作の小説でも,そして,この映画でも,この子どもたちがクローンであるとは断言してはいない,そう思わせる描写はあるが・・・・,というものであった。だから,驚いて,もう一度,急いでDVDを見なおしてみた。映画の方は,小説よりもはるかにメッセージ性を鮮明にさせ,このストーリーのふところの深さをわかりやすく前面に押し出す手法をとっている(優れたシナリオになっていると思う)。

しかし,再度,確認した結果でも,わたしの記憶どおり,この子どもたちがクローンであるとは断定していない。この子どもたちが成長していく途上で,自分たちの「オリジナル」探しをする話が,映画の中盤のひとつの山場をなしている。その場面では,彼ら自身がみんなクローンではないかという「噂」を信じている様子が描かれている。しかし,その一方では,その「噂」を信じたくないという葛藤も描かれている。けれども,彼らがクローンであるという断定は,どこにもない。

カズオ・イシグロが,この映画のなかに仕掛けた重要な罠のひとつは,この「噂」をめぐる問題系にある,とわたしは受け止めている。それが太い柱となってこの映画を構成するテーマとなっている,と。そして,「噂」というものが,いかに,根拠のない,あいまいなものであるか,いかに,人間はこの「噂」を信じやすいか,騙されやすいか,ということをカズオ・イシグロはこの映画のなかで,きわめて念入りに2重3重に仕掛けている,とわたしは読み解く。ここを見落としたら,この映画の大半は意味を失ってしまう,とすら考えている。

人間は幻想なしには生きてはいけない。いい悪いは別にして,人間は,自分にとって都合のいい,あるいは,納得しやすい幻想は,いとも簡単に信じてしまう。そして,その幻想を大事に温めながら,それに依拠して生きていく。人間にとって,ある種の幻想はきわめて大事なのである。と同時にきわめて危険でもあるのだ。だから,この幻想を,権力者たちは巧みに操る。「噂」はその最たるものだ。

この幻想が,厳しい現実の前でもろくも崩れ落ちていく,それがこの映画のラスト・シーンのクライマックスになっていることは,だれの眼にも明らかだろう。真実の愛が証明されれば恋人同士の延命が,ほんの2~3年とはいえ認められるらしいという「噂」を信じて,トミーとキャシー・Hはその嘆願にでかける。が,そんなものはない,単なる「噂」に過ぎなかったということを知って,その帰途,原野の闇夜に向かって「絶叫」するトミー,その絶望を共有しようとするキャシー・Hとがひしと抱き合いながらも,膝から崩れ落ちていくトミー,それを支えきれないキャシー・H。じつに象徴的なシーンである。

じつは,ここに到達するまでには,いくつもの伏線がこの映画のなかには埋め込まれている。冒頭にでてくる「噂」は,子どもたちの生活の場であり,学びの場である「囲い込まれた」敷地の<外>にでると,生きては戻れない,という「噂」をすべての子どもたちが信じて疑わない,という場面だ。ボール遊びをしていて,敷地の囲いの近くまで転がっていったボールを,だれひとりとして拾いには行こうとはしない。それをみていた新任の先生(女性)が,こどもたちに,なぜ,ボールを拾いに行かないのか,と問い詰めたときのこどもたちの応答がこれだった。「生きては帰れなくなる」という「噂」を信じて疑おうとはしない。

これは,彼らがものごころついたときからの「刷り込み」でもある。その「刷り込み」の最たるものが,将来は「臓器提供者」となるべき使命(ミッション)を,あなた方は背負っているのだ,というものだ。そして,この使命を疑おうともしない。教育というものの恐ろしさを思い知らされる場面だ。戦前の国民学校に入学したわたしは,将来は,「立派な兵隊さんになって,お国のために役立つこと=死ぬ」ことを信じて疑おうとはしなかった。その記憶がまざまざと蘇ってきた場面である。映画のなかの校長先生(女性)のみごとな説話(毎朝,行われている)の語り口。凛とした,あの威厳に満ちた姿勢は,こどもたちをその気にさせる恐るべき力をもっている。

言ってしまえば,意図的・計画的な「洗脳」教育がここではみごとに実践されているのである。このことの恐ろしさは,わたしたち大人でさえ「原発安全神話」を信じ込まされてきた経緯をとおして実証済みだ。こういう「噂」をテコにした「刷り込み」や「洗脳」は,あの手この手で,現実の世界のいたるところで行われている。それらの「怪情報」をいかにかいくぐって間違いのない人生を生きていくべきか,そのリテラシー教育さえ,まじめに議論されている時代だ。この情報化社会の空恐ろしい落とし穴だ。このことは,ここではひとまず,措くとしよう。

この映画は,わたしたち観客をも巻き込んで,この「噂」「刷り込み」「洗脳」を展開している。まずは,映画の冒頭の「DNA」という文字が全面に羅列された映像がつよくわたしたちの脳裏に刷り込まれていく。わたしたちの無意識のなかに「DNA」がスルリと入り込んでくる。しかも,科学の驚異的な発達の結果・・・・,という字幕も入る。これも,みごとなカズオ・イシグロの仕掛けた罠だ,とわたしは受け止めている。だから,映画の主人公たちがオリジナル探しをはじめると,もう,無意識のうちに「ああ,クローンなのだ」と観客のほとんどは,なんの疑いもなくそう思い込んでしまう。しかし,そう断定できる場面はどこにもない。

こうした,カズオ・イシグロの仕掛けた罠は,あちこちに仕掛けてあって,じつはきわめて複雑な構造をなしている。その一つひとつは,映画をみながら確認してみていただきたい。じつに手の込んだ,綿密な計算の上に成り立っていることがわかる。原作の小説はもっともっと精密に,しかも読者の想像力を無限にかき立てる力をもって,描写されている。

映画の方は,すでに,クローンを取り扱った映画だという「噂」は定着しつつある。しかも,完全なるフィクションであるにもかかわらず,さも,現実にありうる話であるかのようなリアリティをもってわたしたちに迫ってくる。しかも,過去の話としてクローンの問題を取り扱っている。しかし,それでもなお,クローンではない可能性をも想像させる仕掛けをカズオ・イシグロは,この映画のなかに埋め込んでいる。それがわたしの理解であり,感動なのだ。

クローン以外の,堕胎児や,捨て子や,場合によっては誘拐されたり,売買されたり,といった具合にして「出自が明らかでない子どもたち」である可能性も,十分に残されている。ヤン・ソギルの小説には,東南アジアのどこかを舞台にした少女たちの人身売買と臓器提供の裏社会を描いた作品がある。これもまた衝撃的な作品になっている。他方,イギリスとはいえ,「過去」の国策として「臓器提供者」を確保するという前提に立てば(つまり,フィクションとして),なにもクローンに限定しなくても(あるいは,クローンと見せかけることによって),「出自の明らかでない子どもたち」を掻き集めてきて「洗脳」することは,十分にリアリティを持ちうることになる。

ここまで想像力を働かせることを,カズオ・イシグロはこの映画のなかで仕掛けている,とわたしは読み解く。つまり,あらゆる想像力をかき立てるべく,さまざまな罠が仕掛けられている,と。また,その方がはるかに映画としてのふところの深さ,奥の深さが増してくる。あまりに,単純に,クローンだと決めつけることを,たくみにカズオ・イシグロは忌避している,とさえわたしは考えている。こうして,この映画の含みもつ空恐ろしさにわたしは襲われる。

だから,仮に,この子どもたちがクローンであったとしても,その「出自」(=オリジナル)が明らかでないことに変わりはない。ここまで,わたしは解釈した上で,「出自の明らかでない子どもたち」という文言を修正する必要はない,と結論を出した。そして,その結論だけをメールで,くだんの編集者に伝えた。編集者からは,わたしの評を読んだ某女流作家から「誤解を招く恐れあり」という指摘があったので,そのまま鵜呑みにして返してしまった,申し訳ない,わたしが確認をすべきことがらでした,という詫びのメールが返ってきた。

この問題については,わたしの敬愛してやまない,この編集者と膝を交えて,とことん議論をしてみたいと思っている。彼がどのようにこの映画を読み解いているのか,を。とりわけ,この映画を「究極のラブ・ロマンス」と見出しを付して評した,プロの映画評論家(新聞に書いてあった)のあまりのお粗末さを,酒のつまみにして。できることなら,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』の仮説にもとづいてこの映画を読み解くと,なにが,新たな「知」の地平として浮かび上がってくるのかを。さらには,西谷修の『理性の探求』で提示された「狂気と化した理性」の視点から,この映画を読み解くと・・・・ということも。

「人間の生を理解することもなく,みんな終ってしまう」というキャシー・Hのひとりごともまた,単に,この映画の登場人物たちに限られることではなく,現代社会を生きるわたしたちのすべてが考えなくてはならない普遍のテーマなのだ。「人間の生」とはなにか。「3・11」以後を生きるわたしたちにとっては,もはや避けてとおることのできない,もっとも切実なテーマなのだ。

この議論の場に参加ご希望の方は,お知らせください。定員2名まで。ただし,バタイユと西谷修の本を相当に深く読み込んでいる,というのが前提条件。居酒屋『延命庵』の催しものとして。無料。飲食物持ち込み自由。

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