2011年12月9日金曜日

神戸市外国語大学の集中講義が近づいてくる。

身辺に不如意なことが多く,あちこちに迷惑をかけている。約束していた原稿は,締め切り日がきているのにまだ書けないまま,いたずらに引き延ばしているし,つぎの原稿の締め切り日もすぐそこにきているし・・・・・・。その間に,学会誌の論文査読が3本もあるし(これが全部違う学会)・・・・。困った,困ったの連続である。

その上,神戸市外国語大学の集中講義が20日(火)からはじまる。19日(月)には神戸に入っていないといけない。しかも,こんどの集中講義が,契約上,最後の講義となる。その意味では,3年間,つづけてきた集中講義の総集編ということにもなる。だから,しっかりした準備をしてでかけたい。しかしながら,これまた,不如意。

前期も後期も,集中講義がはじまるかなり前から,このブログをとおして,講義の1回ごとの問題を投げかけておいて,それを手がかりにして授業を展開するという方法をとってきた。この方法は学生さんも覚悟の上でやってくるし,わたしもウォーミングアップとしてとても具合がいい。だから,今回もそうしようと思っていたのだが,そうはいかない。残念。

直近の3回の集中講義では,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳,ちくま学芸文庫)をテクストにして,これをスポーツ史的に読み解くことを試みてきた。テクストのタイトルが『宗教の理論』となっているので,多くの人が意外に思うらしい。しかし,内容を読んでみれば,その疑問はすぐに解ける。ここでバタイユが説いている「宗教」は,既成の宗教とはなんの関係もないからだ。そうではなくて,なぜ,人間は「宗教的なるもの」に惹かれていくのか,なにゆえに「宗教的なるもの」に依存していくことになるのか,という原初の宗教の起源の問題をとりあげている。

しかも,この原初の「宗教的なるもの」が立ち上がるとき,同時に「スポーツ的なるもの」が出現してくる,とわたしは考えている。だから,このテクストはスポーツ史・スポーツ文化論に関心をもつ者にとっては避けてとおることのできない,必読の書ということになる。

別の見方をすれば,こんにちのスポーツ情況に慣れきってしまったわたしたちにとって,スポーツのルーツはどこにあるのか,を考えるための絶好の手がかりを与えてくれるテクストでもある。いま,「こんにちのスポーツ情況に慣れきってしまった」と書いたのは,メディアの都合によって「つくられ」てしまったスポーツ情況のことを意味する。そして,これがスポーツだ,と信じている人が圧倒的多数を占める時代に突入している。

とりわけ,テレビの映像をとおして,スポーツのイメージは自在に操られていると言っても過言ではない。しかも,そこに働いている力学は「視聴率」なる経済原則だ。つまり,カネになる映像ばかりが拡大・再生産されていく。そうして,ますます,スポーツのルーツからは遠ざかっていく。その是非はともかくとして,スポーツ本来の姿はどこかに忘れ去られてしまうことになる。

いま,ちょうど,「3・11」はスポーツを変えるか,という問題がわたしの周辺では議論されている。そのとき,もっとも問われるのは,「スポーツとはなにか」という問いへの応答である。つまり,原点に立ち返って「スポーツとはなにか」を問おうとするとき,わたしの念頭には,真っ先に,このバタイユの『宗教の理論』が浮かび上がってくる。そして,そのつど,このテクストを読み返すことになる。しかも,そこから,じつに多くのヒントをえることができる。

そこで,いま,考えていることは,こんどの集中講義では,このテクストの「総ざらい」をしてみてはどうだろうか,ということだ。いわゆるバタイユの『宗教の理論』の総集編として。つまり,もう一度,このテクストの「第一部 基本的資料」の「動物性」「人間性と俗なる世界の形成」「供犠,祝祭および聖なる世界の諸原則」を,総ざらいすること。

それならば,すでに,このブログをとおして,すべて,わたしの読解は提示してある。それらをとりだしてきて,そこを手がかりに議論を展開すればいいことになる。

もう,すでに,しびれを切らしたかのように,これまでに書いたバタイユ読解のブログがふたたび読まれはじめている。このブログのシステムはよくできていて,どのブログがいつごろ,どの程度(回数)読まれているかという統計がわかるようになっている。たぶん,神戸市外国語大学のこの授業を受けようという学生さんたちが,予習を兼ねて読んでくれているのだろう,とわたしは推測している。だとしたら,ありがたいことである。

ということで,このブログは,しばらくの間は集中講義向けの「たたき台」を提示することになりそうだ。また,しなければならないと思っている。が,はたして,どうか。でも,もう,待ったなしだ。なりふり構わずやるしかない。恥ずかしながら挑戦するのみ。

ここまで声高らかに宣言した以上は,もう,戻れまい。
これは,なにいおう,みずからへの引導わたしそのものだ。
いよいよ,此岸と彼岸の別れ道。

0 件のコメント: