2011年12月9日金曜日

バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・「欲望」その1.

 それ自身によってそれ自身へと,認識(真正な)のうちに啓示された<存在>を,ある「主体」へと啓示される一個の「客体」に変えるのは,すなわちその客体とは異なり,その客体に対立しているような一個の主体によって,その「主体」へと啓示されるある「客体」へと変化させるのは,<欲望>である。

眩暈がするような文章である。これが,『宗教の理論』の目次のあとの,最初のページに,アレクサンドル・コジェーヴ(『ヘーゲル読解入門』)からの引用文として紹介されている小文の書き出しである。ここに引用されているコジェーヴの文章は,最後まで,この調子である。最初に読んだときは,ほんとうに眩暈がした。なんのこっちゃ,と。

何回も何回も,それこそ何十回も読み返しているうちに,あるなにかが氷解したようにすっと透けてみえてくるものがあった。それからあわててヘーゲルの『精神現象学』(長谷川宏訳)を読んでみた。眼からうろこが落ちるように,内容が染み込んでくる。

すでに,ブログで書いているように記憶するのだが,バタイユはアレクサンドル・コジェーヴが講義していた『精神現象学』読解の授業に,かなりの年齢になってから何年にもわたって熱心に通った。そして,バタイユ自身もヘーゲル読解に取り組んだ。このヘーゲル読解をとおして,バタイユの「非-知」(エクスターズ,恍惚)という概念がヘーゲルの「絶対知」と対をなす概念として不動のものとなったことはよく知られているとおりである。

そのバタイユの思想・哲学形成に大きな影響を与えたコジェーヴからの引用が,この『宗教の理論』の冒頭に掲げられていることに,まずは注目しておきたい。

なぜなら,『宗教の理論』の第一部 基本的資料は,動物性の世界から人間が離脱し,人間の世界に移動していく過程でいったいなにが起きたのか,動物が人間になるということはどういうことなのか,その結果,なにが新たに起きたのか,といった問題を徹底的に洗い出している。そのための,きっかけとなった文章が,コジェーヴからのこの引用文ではなかったか,と考えられるからだ。だとしたら,この文章はあだやおろそかにはできない。

その意味で,もう一度,このコジェーヴの文章をじっくりと熟読玩味しておきたい。ここを,どのように通過するかによって,以後のバタイユの文章の読解にも大きな影響がでてくることは必定だからである。しかも,余分な修飾語を削ぎ落したきわめて密度の高い凝縮された文章なので,いくとおりにも読解可能である。しかし,きちんと読みきれていれば,あとは,まっしぐらにバタイユの世界に入っていくことができる。そういう文章だと理解していただきたい。

ところで,このコジェーヴの文章のキー概念は<欲望>である。

さきの引用文の結論は,主体が客体を認識するのは欲望だ,ということ。言い方を変えれば,欲望が主体を開くのだが,そのきっかけとなるのは客体だ,ということ。たとえば,いつも眺めている一本の大木が,ある日,突然,わたしにとってある意味をもちはじめるのは,わたしの欲望だ,と置き換えてもいいだろう。一本の大木は一本の大木として,だれの眼にもその存在は明らかなのだが,その一本の大木が,ある主体にとってある意味を帯びた客体になるのは,主体の欲望だ,というのである。これでも,まだ,ことばが足りない。この場合,わたしという主体と,一本の大木という客体は,まったく異なる存在であり,かつ「対立」しているような存在であるからこそ,主体の欲望が作動する,と言っているように読める。

もう少しつづけてみよう。主体は主体だけでは主体にはなりえない。客体が存在しないかぎり主体は存在しない。客体と主体の間の区別がない状態にあっては,主体は存在しない。すなわち,動物性の世界では,主体は存在しない。もちろん,客体も存在しない。主体も客体もなにもない,「水のなかに水がある」ような状態が,バタイユのいう動物性の世界である。

だから,コジェーヴの引用をバタイユがここにもってきた理由は,動物と人間を分かつ,そのきっかけと根拠を明確にするためなのである。そのキー概念が<欲望>だ,というわけである。

しかも,この<欲望>のはたらきによって,主体と客体は二転三転していく。この議論はまた,のちほど,取り上げることにしよう。いましばらくは,コジェーヴの引用文の読解に取り組むことにしよう。

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