コジェーヴの言説に耳を傾けてみよう。バタイユが引用した最後のパラグラフで,コジェーヴはつぎのように語る。
人間を受動的な平静さ(キエチュード)の内に維持する認識とは反対に,<欲望>は人間を不安(アンキエ)にし,行動するように促進する。行動はこうして<欲望>から生まれたものであるから,それを充足させようとする傾向を持つけれども,行動がその充足をなし遂げることが可能なのは,その欲望の対象を「否定」すること,それを破壊するか,あるいは少なくともそれを変化させることによる以外ない。たとえば飢えを充足させるためには,食料となるものを破壊するか,あるいは変化させる必要がある。このように全て行動というものは,「否定的」に作用するのである。
このコジェーヴの言説をどのように読み取ればいいのだろうか。まずコジェーヴは,人間としての認識は受動的で平静さの内で維持されるけれども,それとは反対に,動物的な欲望は人間を不安にさせるだけではなく,行動を引き起こさせる,という。このパラグラフからコジェーヴはなぜかさきを急ぐようにして,論旨を急転回させている。ここでのキー・ワードは「不安」(アンキエ)であろう。そして,この不安は,人間的な認識と動物的な欲望との落差(亀裂,矛盾,不整合)によって生ずるものを言っているのであろう。だから,その落差を埋め合わせるために「行動」するようになる,という論の展開になっている。このコジェーヴの指摘する「不安」(アンキエ)と,ハイデガーのいう「不安」(ゾルゲ)とは,考えている位相がかなり違うということを,ここでは注意しておこう(その内容については,授業のなかで解説する予定)。
動物的な欲望が,認識を身につけはじめた人間を不安にし,その不安を解消するために行動を引き起こす。しかし,その行動が欲望を充足させるには,欲望の対象を「否定」する以外にない,という。ここでいう「否定」とは,対象を破壊するか,変化させることを意味している。かつて,「文化の否定性」(川田順造)ということがさかんに議論されたことがあるが,そのひとつの根はここにも存在する。いな,この根こそがもっとも根源的なところに届いている,といった方がいいだろう。その意味で,コジェーヴのいう「否定性」のロジックは注目しておくべきであろう。
飢えを充足させる,というたとえは,一見したところわかりやすいが,なかなかそうそう単純ではない,とわたしは考える。つまり,食料となるものを破壊するか,変化させる必要がある,といとも簡単にコジェーヴは述べているが,はたしてどうか。
バタイユは『宗教の理論』の第一部のなかで,この問題に触れて,かなり重要な問題提起をしている。つまり,この「食料となるものを破壊するか,変化させる」ということの意味について,深い論考を展開している。それによれば,人間が,動物性から離れて人間性の世界に入れば入るほど,存在不安を抱き,ますます不安になってくる,という。その不安を解消させるために,人間性の世界では,食料となるものを「殺して,調理する」ということを始める。それは,美味しく食べるという現代的な意味とはまったく無縁で,むしろ,生き物を殺して食べるということに対する恐怖・不安を解消するための智慧の所産だ,とバタイユは説いている。
動物性の世界にあっては,自他の区別がないので,そのままお互いに食べる/食べられる。つまり,調理などすることはない。その必要も感じない。つまり,自己が食べられることも他者を食べることも同じ位相のできごとにすぎないからである。
しかし,動物性から人間性への移行期にあっては,人間は二つの世界を往来することになる。このとき,人間は動物性へ回帰することを諦め(不可能でもある),逆に,決別を迫られることになる。と同時に,動物性の世界にあっては当たり前であったことに,大いなる不安を抱くようになる。この新たな不安を解消することが,人間にとっての大きな課題となって登場することになる。そのひとつが「食べる」という行為の不安解消の方法だ。
動物のようにそのまま「食べる」ことは,人間にあっては許されない。そこで,まずは,動物を殺すことを供犠として位置づけ,供犠としての儀礼を経たのちの動物を,さらに「調理」することによって,動物性の世界との決別・折り合いをつける。そうしてから,はじめて「食べる」という行為が可能となる。このことが,いわゆる「宗教的なるもの」のはじまりと深く結びついている。そして,同時に,「スポーツ的なるもの」のはじまりもまた,こうした人間の存在不安と深く結びついているのではないか,というのがわたしの現段階での仮説である。
ことほどさように,人間の「行動」はすべて「否定的」に作用するのだ,とコジェーヴは断言する。とすれば,「スポーツ的なるもの」の「行動」はなにを「否定」するために立ち上がり,継承されることになったのだろうか。そこに,なんらかの意味がなければ,原初の「スポーツ的なるもの」は伝承されることなく立ち消えになったはずである。しかし,そうではなかった。
では,いったい,なにが「スポーツ的なるもの」を継承させる原動力となったのだろうか。
この点については,この『宗教の理論』読解のための,耐えざる問題意識として維持していくことにしよう。
以上が,コジェーヴの引用文についてのわたしの読解である。
もちろん,これ以外の読解があって当然である。したがって,わたしの読解とは異なる読解があって,それとのすり合わせをとおして,さらに深い読解を目指したい。
以上,コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』からの引用文の読解まで。
人間を受動的な平静さ(キエチュード)の内に維持する認識とは反対に,<欲望>は人間を不安(アンキエ)にし,行動するように促進する。行動はこうして<欲望>から生まれたものであるから,それを充足させようとする傾向を持つけれども,行動がその充足をなし遂げることが可能なのは,その欲望の対象を「否定」すること,それを破壊するか,あるいは少なくともそれを変化させることによる以外ない。たとえば飢えを充足させるためには,食料となるものを破壊するか,あるいは変化させる必要がある。このように全て行動というものは,「否定的」に作用するのである。
このコジェーヴの言説をどのように読み取ればいいのだろうか。まずコジェーヴは,人間としての認識は受動的で平静さの内で維持されるけれども,それとは反対に,動物的な欲望は人間を不安にさせるだけではなく,行動を引き起こさせる,という。このパラグラフからコジェーヴはなぜかさきを急ぐようにして,論旨を急転回させている。ここでのキー・ワードは「不安」(アンキエ)であろう。そして,この不安は,人間的な認識と動物的な欲望との落差(亀裂,矛盾,不整合)によって生ずるものを言っているのであろう。だから,その落差を埋め合わせるために「行動」するようになる,という論の展開になっている。このコジェーヴの指摘する「不安」(アンキエ)と,ハイデガーのいう「不安」(ゾルゲ)とは,考えている位相がかなり違うということを,ここでは注意しておこう(その内容については,授業のなかで解説する予定)。
動物的な欲望が,認識を身につけはじめた人間を不安にし,その不安を解消するために行動を引き起こす。しかし,その行動が欲望を充足させるには,欲望の対象を「否定」する以外にない,という。ここでいう「否定」とは,対象を破壊するか,変化させることを意味している。かつて,「文化の否定性」(川田順造)ということがさかんに議論されたことがあるが,そのひとつの根はここにも存在する。いな,この根こそがもっとも根源的なところに届いている,といった方がいいだろう。その意味で,コジェーヴのいう「否定性」のロジックは注目しておくべきであろう。
飢えを充足させる,というたとえは,一見したところわかりやすいが,なかなかそうそう単純ではない,とわたしは考える。つまり,食料となるものを破壊するか,変化させる必要がある,といとも簡単にコジェーヴは述べているが,はたしてどうか。
バタイユは『宗教の理論』の第一部のなかで,この問題に触れて,かなり重要な問題提起をしている。つまり,この「食料となるものを破壊するか,変化させる」ということの意味について,深い論考を展開している。それによれば,人間が,動物性から離れて人間性の世界に入れば入るほど,存在不安を抱き,ますます不安になってくる,という。その不安を解消させるために,人間性の世界では,食料となるものを「殺して,調理する」ということを始める。それは,美味しく食べるという現代的な意味とはまったく無縁で,むしろ,生き物を殺して食べるということに対する恐怖・不安を解消するための智慧の所産だ,とバタイユは説いている。
動物性の世界にあっては,自他の区別がないので,そのままお互いに食べる/食べられる。つまり,調理などすることはない。その必要も感じない。つまり,自己が食べられることも他者を食べることも同じ位相のできごとにすぎないからである。
しかし,動物性から人間性への移行期にあっては,人間は二つの世界を往来することになる。このとき,人間は動物性へ回帰することを諦め(不可能でもある),逆に,決別を迫られることになる。と同時に,動物性の世界にあっては当たり前であったことに,大いなる不安を抱くようになる。この新たな不安を解消することが,人間にとっての大きな課題となって登場することになる。そのひとつが「食べる」という行為の不安解消の方法だ。
動物のようにそのまま「食べる」ことは,人間にあっては許されない。そこで,まずは,動物を殺すことを供犠として位置づけ,供犠としての儀礼を経たのちの動物を,さらに「調理」することによって,動物性の世界との決別・折り合いをつける。そうしてから,はじめて「食べる」という行為が可能となる。このことが,いわゆる「宗教的なるもの」のはじまりと深く結びついている。そして,同時に,「スポーツ的なるもの」のはじまりもまた,こうした人間の存在不安と深く結びついているのではないか,というのがわたしの現段階での仮説である。
ことほどさように,人間の「行動」はすべて「否定的」に作用するのだ,とコジェーヴは断言する。とすれば,「スポーツ的なるもの」の「行動」はなにを「否定」するために立ち上がり,継承されることになったのだろうか。そこに,なんらかの意味がなければ,原初の「スポーツ的なるもの」は伝承されることなく立ち消えになったはずである。しかし,そうではなかった。
では,いったい,なにが「スポーツ的なるもの」を継承させる原動力となったのだろうか。
この点については,この『宗教の理論』読解のための,耐えざる問題意識として維持していくことにしよう。
以上が,コジェーヴの引用文についてのわたしの読解である。
もちろん,これ以外の読解があって当然である。したがって,わたしの読解とは異なる読解があって,それとのすり合わせをとおして,さらに深い読解を目指したい。
以上,コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』からの引用文の読解まで。
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