神戸市外国語大学での集中講義はことしで3年目。昼休みや,講義の途中の休み時間には,できるだけキャンパスの中を散歩しながら気分転換をはかっている。だから,キャンパス内の様子はだいたいわかっているつもりでいた。
しかし,昨日の散策の途中で,新たな発見があってびっくり仰天。いつも何気なく眺めていた不思議な形のモニュメントの存在が急に気になって,一緒に散策していた神戸市外大の竹谷先生に「あの作品はだれのものですか」と聞いてみた。「いやぁ,作者の名前までは知りません」という。そこで,近くまで寄っていって作者の名前を確認してみた。そこには「真板雅文・1984」とあるではないか。
あっと驚いて,「この人は世界的に活躍したアーティストです」とT先生に得意満面で説明。とはいえ,わたし自身もそんなに詳しいわけではない。もちろん,面識はない。ただ,作品は,とびとびながら現物や写真などでみて,なぜか印象に残っている。鉄,石,木,竹,などの素材をつかった作品が多く,一種独特の雰囲気のある作品だ。
神戸市外国語大学のキャンパスにある作品は,鉄でできている。制作年は1984年。真っ赤に錆びているのは,年数を経たからではなくて,そのような作品として最初から制作されたものなのだろうなぁ,と想像している。一見したところ,広島の原爆ドームを地上に下ろしてきたのかな,というように見える。ちょっと殺伐としたものを感じるのだが,しばらく眺めていると,少しずつ印象が変化しはじめる。しかも,みる位置や角度を変えると,それぞれに別の表情をみせる。そのうちに,変に曲がった鉄の小さな造形が小鳥にみえてくる。小鳥たちが群れて戯れているようにもみえる。そこを「風」が吹き抜けていく。(写真参照)
早朝の表情と,昼休みと,夕方では,その表情を変える。曇り空と晴れではまったく別物にみえる。こうなってくると,毎時間の休みの間にでかけて行って,じっと対面してみる。すると,いつのまにか,作品がこちらのからだに馴染んでくる。いや,からだが,作品に馴染んでいく,というべきか。そして,とうとう会話まではじまっていることに気づく。そのころから,「風」を感ずるようになる。なるほど,「風の道」だ,と。
インターネットで「真板雅文の略歴」というところを開いてみると,このアーティストがどれほどの活躍をした人であるかが一目瞭然である。しかも,驚くほどのご活躍である。世界を相手にした大活躍である。その略歴の最後のところに「野外彫刻・立体造形」(設置年代順)という見出しがある。そこのはじめの方に,「第9回神戸須磨離宮公園現代彫刻展でユニヴァーシアード神戸大会記念賞」(1984年)という記録がある。たぶん,「風の道」はこのときの作品ではないだろうか,とわたしは想像している。
1984年の翌年,1985年には,まさに,ユニヴァーシアード大会が神戸で開催されており,神戸市外国語大学のキャンパスには「記者クラブ」が設置されていたという(当時,毎日新聞社の記者であった玉置通夫さんの話)。大学がこの地に移転してきたのは1986年という(竹谷さんのお話)。ということは,真板先生が,賞をとられた所縁の地に,大学の移転を記念して寄贈されたのではないか,と想像をたくましくしている。
わたしは,能面アーティストの柏木さんをとおして,真板先生の存在を知った。彼女の話では,銀座の文藝春秋画廊で能面の展覧会をやっているときに,真板先生が来られて「貴女の作品は世界にでていく力をもっている」と感想を述べられた,という。それが嬉しくて,ますます制作に熱が入るようになった,という。だから,急に亡くなられたときには(心臓発作)悲しくて悲しくて,涙が止まらなかった,とのこと。そして,とうとう,その泣き顔を能面に写し取り,作品にしてしまった,という。
その作品を展覧会に出品したときに,その会場で,偶然,真板夫人とお会いして,お話をさせていただいたことがある。とても優しい話し方をされる,上品な方だった。そのときには,真板先生が残された作品をどのようにすればいいのか,いろいろの方のご意見を聞くために奔走している,というようなお話だったと記憶する。
それにしても,ご縁とは不思議なものだ。真板先生の作品「風の道」が,1984年のユニヴァーシアード神戸大会記念賞だった可能性があるのだから。(わたしはまず間違いないと確信する)。しかも,いまの予定では,来年8月に開催される第2回バスク・日本国際セミナーのときには,能面アーティストの柏木さんの作品展示と実演が行われることになっている。となると,真板先生の作品「風の道」と柏木さんの作品「悲しくて」とのコラボレーションが成立する。ひょっとしたら,真板夫人も来られるかも・・・・。
とまあ,こんなことを夢見ている。楽しみは多い方がいい。
しかし,昨日の散策の途中で,新たな発見があってびっくり仰天。いつも何気なく眺めていた不思議な形のモニュメントの存在が急に気になって,一緒に散策していた神戸市外大の竹谷先生に「あの作品はだれのものですか」と聞いてみた。「いやぁ,作者の名前までは知りません」という。そこで,近くまで寄っていって作者の名前を確認してみた。そこには「真板雅文・1984」とあるではないか。
あっと驚いて,「この人は世界的に活躍したアーティストです」とT先生に得意満面で説明。とはいえ,わたし自身もそんなに詳しいわけではない。もちろん,面識はない。ただ,作品は,とびとびながら現物や写真などでみて,なぜか印象に残っている。鉄,石,木,竹,などの素材をつかった作品が多く,一種独特の雰囲気のある作品だ。
神戸市外国語大学のキャンパスにある作品は,鉄でできている。制作年は1984年。真っ赤に錆びているのは,年数を経たからではなくて,そのような作品として最初から制作されたものなのだろうなぁ,と想像している。一見したところ,広島の原爆ドームを地上に下ろしてきたのかな,というように見える。ちょっと殺伐としたものを感じるのだが,しばらく眺めていると,少しずつ印象が変化しはじめる。しかも,みる位置や角度を変えると,それぞれに別の表情をみせる。そのうちに,変に曲がった鉄の小さな造形が小鳥にみえてくる。小鳥たちが群れて戯れているようにもみえる。そこを「風」が吹き抜けていく。(写真参照)
早朝の表情と,昼休みと,夕方では,その表情を変える。曇り空と晴れではまったく別物にみえる。こうなってくると,毎時間の休みの間にでかけて行って,じっと対面してみる。すると,いつのまにか,作品がこちらのからだに馴染んでくる。いや,からだが,作品に馴染んでいく,というべきか。そして,とうとう会話まではじまっていることに気づく。そのころから,「風」を感ずるようになる。なるほど,「風の道」だ,と。
インターネットで「真板雅文の略歴」というところを開いてみると,このアーティストがどれほどの活躍をした人であるかが一目瞭然である。しかも,驚くほどのご活躍である。世界を相手にした大活躍である。その略歴の最後のところに「野外彫刻・立体造形」(設置年代順)という見出しがある。そこのはじめの方に,「第9回神戸須磨離宮公園現代彫刻展でユニヴァーシアード神戸大会記念賞」(1984年)という記録がある。たぶん,「風の道」はこのときの作品ではないだろうか,とわたしは想像している。
1984年の翌年,1985年には,まさに,ユニヴァーシアード大会が神戸で開催されており,神戸市外国語大学のキャンパスには「記者クラブ」が設置されていたという(当時,毎日新聞社の記者であった玉置通夫さんの話)。大学がこの地に移転してきたのは1986年という(竹谷さんのお話)。ということは,真板先生が,賞をとられた所縁の地に,大学の移転を記念して寄贈されたのではないか,と想像をたくましくしている。
わたしは,能面アーティストの柏木さんをとおして,真板先生の存在を知った。彼女の話では,銀座の文藝春秋画廊で能面の展覧会をやっているときに,真板先生が来られて「貴女の作品は世界にでていく力をもっている」と感想を述べられた,という。それが嬉しくて,ますます制作に熱が入るようになった,という。だから,急に亡くなられたときには(心臓発作)悲しくて悲しくて,涙が止まらなかった,とのこと。そして,とうとう,その泣き顔を能面に写し取り,作品にしてしまった,という。
その作品を展覧会に出品したときに,その会場で,偶然,真板夫人とお会いして,お話をさせていただいたことがある。とても優しい話し方をされる,上品な方だった。そのときには,真板先生が残された作品をどのようにすればいいのか,いろいろの方のご意見を聞くために奔走している,というようなお話だったと記憶する。
それにしても,ご縁とは不思議なものだ。真板先生の作品「風の道」が,1984年のユニヴァーシアード神戸大会記念賞だった可能性があるのだから。(わたしはまず間違いないと確信する)。しかも,いまの予定では,来年8月に開催される第2回バスク・日本国際セミナーのときには,能面アーティストの柏木さんの作品展示と実演が行われることになっている。となると,真板先生の作品「風の道」と柏木さんの作品「悲しくて」とのコラボレーションが成立する。ひょっとしたら,真板夫人も来られるかも・・・・。
とまあ,こんなことを夢見ている。楽しみは多い方がいい。
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