2011年12月23日金曜日

神戸市外国語大学の集中講義,無事に終了。

三日間で15コマの集中講義が,22日午後5時30分に,無事,終了。なにか感慨深いものがある。なぜなら,神戸市外国語大学客員教授としての,3年契約の,これが最後のお勤めだったことが一つ。もう一つは,バタイユの『宗教の理論』読解の授業に,3年生,4年生と2年間にわたって受講してくれた学生さんたちの反応がすこぶるよかったことだ。

精確にいえば,2010年前期には,マルセル・モースの『贈与論』を読み,2010年後期から,2011年前期,そして,今回の後期と3回にわたってジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を読んだことになる。さすがに,2年間,とおしてこの授業を受講してくれた学生さんたちの理解は,予想以上に深いものがあり,今回の読解でも,しばしば新しい視点を提示してくれ,わたしを挑発・興奮させてくれた。やはり,柔わらかな思考のできる若い頭脳は,いまのわたしには貴重な存在だ。

講義題目は「スポーツ文化論」。この「スポーツ文化」を,まずは,マルセル・モースのいう「贈与」という視点から考えてみると,なにがみえてくるのか。とりわけ,ポトラッチという概念に分け入って,スポーツ文化の起源との関係を考えてみた。これを受けて,バタイユの『宗教の理論』をベースにした「スポーツ文化」読解にとりかかる。しかし,『贈与論』から『宗教の理論』への橋渡しをするために,バタイユの『呪われた部分 有用性の限界』(普遍経済学の第一部)を通過する必要があった。こうして,バタイユのいう「消尽」「供犠」「贈与」「オブジェ」「事物化」といった重要な概念をなんとか視野の中に収め,『宗教の理論』読解に入っていった。

こうして,『宗教の理論』だけで,1年半,つまり,3期にわたって読解に取り組むことになった。この手続きを踏んだことは,結果論ではあるが,まずまず正解だったと思う。そして,いまは,『エロチシズムの歴史』(普遍経済学の第二部)へと分け入っていくときだ,と考えている。なぜなら,こんにちの「スポーツ文化」の批評を展開するとすれば,やはり,資本主義経済学の枠組みの<外>に立つバタイユの「普遍経済学」という視座が不可欠である,と考えるからだ。つまり,「消尽」をキー・コンセプトにした「経済」の大原則に立ち返るために。

そして,この「消尽」という考え方を基準にして,スポーツ文化を再考してみると,そこにはこんにちのスポーツ文化とはまったく異なった,スポーツの深層に潜むもう一つの姿が浮かび上がってくる。原初の人間にとっての「スポーツ的なるもの」は,ひたすら「消尽」そのものではなかったか。それが,いつから「有用性」の原理に絡め捕られていくことになったのか。そのとき,スポーツ的なるものに,いかなる変化・変容が起きたのか。

その謎解きのための,つぎなる方法が「供犠」と「贈与」ということになる。こうして,スポーツ文化の謎解きをするための三つのキー・コンセプトが立ち上がる。今回の集中講義では,もっぱら,「消尽」「供犠」「贈与」という三つの概念を軸に据えて,スポーツ文化の諸相をとりあげ,あらたな検討を加えることになった。この設定に,学生さんたちは,じつにみごとに反応してくれた。わたしはとても嬉しかった。なるほど,継続するということは大事なことだ,と。広く浅く,あれこれアラカルト的な知をかじるよりは,ジョルジュ・バタイユというひとりの思想・哲学者に徹底的に光を当て,その人の発想を確実にわがものとすること,そして,そこから,スポーツ文化をとらえ直してみること,そのことの方がはるかに実りが大きいと思う。しかも,このバタイユ的視点は,他のあらゆる領域にも当てはめて,応用することができる。

折しも,わたしたちは「3・11」以後を生きなくてはならない。その「3・11」よりもはるかに前から取り組んできたバタイユ読解が,いま,ここにきて,わたしにはきわめて重要な意味をもちはじめている。おそらく,この授業を受けた学生さんたちも,スポーツの世界とは別の,いわゆる外国語を駆使する職種について,その世界で活躍することになるだろう。そういう人たちにとっても(あるいは,そういう人たちであればこそ),バタイユ的思考が,どこかで活かされることになるのではないか,とわたしは期待している。

なにはともあれ,神戸市外国語大学客員教授としての,最低限の職務をなんとかはたすことができたのではないか,とひとまず安堵の胸をなでおろしている。と同時に,万感,胸に迫るものがある。この3年間,わたしの集中講義を受講してくれた学生さんたちに,こころから感謝したい。卒業生もふくめて,みなさん,ありがとう。わたしも,これで卒業です。そして,おそらく,もう二度と集中講義という名のもとで授業を担当することもないだろうと思う。

西田幾多郎は,定年退職のときの最終講義で,つぎのように述べたという。
「わたしの半生は黒板を前にして座した。そして,わたしの残りの半生は黒板を背にして立った」と。なんと直截な表現であることか。そこには,さわやかな風が吹いている。むしろ,潔い風というべきか。そこには,一本の凛とした「風の道」が,浮かび上がってくる。

これは偶然の一致なのか。神戸市外国語大学のキャンパスの中には,「風の道」と題する真板雅文先生のモニュメントが据えられている。もう,何回もこの大学を訪れ,キャンパスの中を散策し,そのつど,このモニュメントにはお目にかかっていたのだが,この作品が,どなたのものであるかは確認もしないでやりすごしていた。が,今回は,そのモニュメントがとても気になり,作者の名前を確認してみた。そこに「真板雅文・1984」とある碑銘を見出したとき,これまた,なんとも言えない感慨があった。これもまた,なにかのご縁というべきか。

以上,神戸市外国語大学の集中講義,無事に終了のご報告まで。

0 件のコメント: