2011年12月12日月曜日

バタイユ『宗教の理論』・総ざらい篇・素描(未完了,不可能性)ということについて。

バタイユは,このテクストの緒言の冒頭で,つぎのように書き記している。
「この『宗教の理論』は,一つの完成した仕事ならばそうなるはずのものの素描(エスキス)である。私はある運動性に富む思想を,その最終的な状態を求めることなく表現しようと試みたのである。」
という断り書きからはじめている。しかも,この文章の末尾には「注1.」が付されている。そして,その「注1.」を確認してみると,これがまた4ページ(P.163~166.)にもおよぶ長いものである。

その「注1」は,つぎの三つの柱で構成されている。
(a)この「宗教の理論」は,一つのエスキスである。
(b)本書が従った方法に関する一つの重要な保留条項について。
(c)ここでさらに私はこの叙述の一般的な原則を,緒言のうちに提示しておかなければならない。
順次,読解をしてみると以下のとおりである。

(a)この「宗教の理論」は,一つのエスキスである。
本文でも同じことを言っているのだが,このテクストはあくまでも「素描」(エスキス)である,という。なぜなら,思考の成熟を待つ前に,浮かんできたアイディアを,とりあえず書き記しておこうと考えたからだ,とバタイユはいう。つまり「運動性に富む思想」は,そのときどきにわき上がってくる発想を,とりあえず書き記しておくことが重要だというのである。そして,絵画の例をひく。「画家の積み重ねる努力がそのエスキスの形のままで,完成したタブローよりももっと多くの重要性を孕み,もっと興味をそそるように思われる時が生じるという事態である。」その上で,バタイユは,「一軒の家」と「作業現場」という比喩をもちいて,巧みに,このテクストの位置づけをしている。つまり,ある完成された思想は「一軒の家」のようなものだが,つぎつぎにアイディアが浮かびつつある,流動的な思想は「作業現場」のようなものだ,と。だから,このテクストは,いま,まさに,いくとおりにも書き換え可能な「作業現場」で織りなされた思想の一端を書き記したものである,と。

これを読みながら,わたしは画家のピカソのことを思い浮かべていた。写実からはじまって青の時代を経て,という具合につぎつぎと新境地を開いていき,ついには「立体派」と呼ばれるような平面の画布に立体を表現するという独特の手法にたどりつく。そして,さらには,抽象画に到達する。たとえば,ピカソの代表作といわれる「ゲルニカ」という絵を描くにあたって,ピカソは,じつに多くの素描(エスキス)を重ねている。それらの素描は,ときには,完成された「ゲルニカ」よりもはるかに雄弁にある情況を語っていることがある。つまり,素描の積み重ねがバタイユのいう「作業現場」であり,作品「ゲルニカ」が「一軒の家」というわけである。(一頭の牛を抽象画として描いた作品があるが,このときもまた「一軒の家」に到達するまでに,40枚余の素描が「作業現場」では描かれている。その過程(プロセス)が,わたしのような素人には,感動的だった。素描の一枚一枚が,わたしからすれば,立派な「一軒の家」なのだ。)(陶器のような焼き物も,アートの世界では同じ)。

(b)本書が従った方法に関する一つの重要な保留条項について。
ここは短いので,そのまま引用しておこう。
「とり急いで素描したこの概要においては,私は用語法を綿密に定めるまでに至らなかったが,その点に関しては償いようのない不都合であると認めねばならない(もっとも敏速に公表できるという可能性がそのおかげで与えられた面は別として)。
哲学的思考は完了することがなく,その未完了から自らの価値の一部分を引き出すと私は述べたがそれと同じことを,まだ十分厳密に定められていない用語法に関して主張するわけにはいかぬだろう・・・」

(c)ここでさらに私はこの叙述の一般的な原則を,緒言のうちに提示しておかなければならない。
ここも,全文,引用しておこう。
「私は歴史上所与の諸形態(たとえば『供犠』とか『資本主義』のような)を,諸々の事実の歴史的な継起とは別の地点で表している。
私は論理的な順序を考慮しているのであって,年代順的な継起をそうしているのではない。それはちょうど『精神現象学』において,本来的な意味での歴史が外側に残されているのと同じである。どう見ても歴史は,その歴史がまさにそれらの結果としてあるような諸々の要請に,不承不承という仕方によってしか応えようとはしなかったと思える。歴史のめまぐるしい紆余曲折は,おそらく野原のなかで一匹の犬が行う右往左往に似ていたのである。
それにもかかわらず私が動物性から記述し始めるのは,総体としては私が時間の継起とともに展開した出来事を辿ろうとしたということを示すものである。」

以上のことを確認すると,本文の「緒言」では難解だった「未完了」とか「不可能性」の意味が明確になってくる。バタイユは,こうして,何回も何回も「素描」を積み重ねていくことの重要性をはっきり意識して,このテクストも書いていたのである。言ってしまえば,「作業現場」の手の内を,そのまま公表することによって,さらに,思想を練り上げることを目指していたのだ。このことを,わたしたちは銘記しておこう。

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