「母からすすめられてこのブログを読むようになりました」と,つい最近コメントを入れてくださった柴田晴廣さんから『穂国幻史考』なる大著が送られてきた。この「母」とは,わたしの小学校のときの同級生で,わたしたちは「さっちゃん」と呼びならしていた。なかなかの美人で,会話のテンポがよくてクラスの人気者だった。その「さっちゃん」の息子さんから,こんな大著がとどくとは夢にも思っていなかったので,びっくり仰天である。800ページにも達する大著である。
わたしはこういう本がとどくと,すぐに吸い込まれるようにして読みはじめてしまう。忙しいときには困ることもあるのだが,たいていはとても面白いのだ。この本も面白い部類の筆頭だ。読みはじめたら止められない。困ったものである。
それには理由がいくつもある。
一つは,「穂国」とはわたしの出身地である東三河地方の古称だから,その中味は,全部,わたしにとっては馴染みのある話ばかりだから。
二つには,この「穂国」に持統天皇が行幸したのはなぜか,という古代史の謎解きからはじまっているから。
三つには,わたしのこどものころのお祭りで踊られていた「笹踊」の由来がくわしく書かれているから。
四つには,小学校の同じ校区である長瀬町の「冨永」一族の歴史が語られているから。さっちゃんは旧姓「冨永」。著者の柴田さんは,さっちゃんのお父さん(つまり,柴田さんのおじいさん)から聞いたという話をてがかりに「冨永」の出自を歴史的にたどりはじめる。
五つには,菅江真澄(東三河出身)の謎解き(この人は謎だらけの人)に踏み込んでいること。
などなど。
恥ずかしい話ながら,古代史にはほとんどうといので,持統天皇が穂国(東三河)に行幸されたということも知らなかった。著者によれば,持統天皇がわざわざ軍を率いて伊勢から舟で穂国にやってこなければならなかったほどの「理由」があったはずだ,という。それが「穂別の祖・朝廷別王」を歴史から抹消するためだったのでは・・・と著者は仮説を立てる。そして,これまで語られることのなかった東三河の古代史が浮かびあがってくる。
このことを知って,あっ,と思ったことが一つあった。それは,額田王がこの地に住んだという伝承があって,なぜだろうととかねがね疑問には思っていたこと,そして,額田郡という地名がいまも残っていること,である。
持統は天武の正妻である。額田王は天武の寵愛をうけ一子(十市皇女・といちのひめみこ)をもうけている。まことに素人っぽい推測をすれば,額田王を大和の地からこの地に移し,封じ込めたのではないか。あるいは,もっと推測すれば,額田王とともに兵を残し,「穂別の祖」の見張りをしていたのだろうか,などと思ったりする。この辺りのことは単なる当てずっぽう。でも,むかしからの疑問なので,なんとなくわくわくしてくる。
もうひとつだけ。長瀬町の冨永は,もともとは野田城主だったという。その野田城は,菅沼一族によって乗っ取られてしまった(この辺りのことは,宮城谷昌光著『風は山河より』(新潮文庫,全6巻に詳しく描かれている)。そのために,冨永一族は長瀬町に流れてきたのだ,という。しかも,興味深いことに,野田城主だった富永は首を刎ねられたということを記憶するために,以後,「富永」ではなく,頭に点のない「冨永」と名乗ることになった,という。このことを,著者は,祖父から直接聞いた,という。
わたしは長瀬町のとなりの大村町に住んでいたのだが,そういう話は初耳であった。こどものころ,さっちゃんのほかにも「冨永」君という友達がいて,長瀬の集落に遊びに行ったことがある。そのときの記憶では,集落全体に一種独特の雰囲気があって,なかなか入りづらいものを感じたことを覚えている。だから,ひとりで行ったことはない。いつもだれかと一緒だった。あるいは,冨永君に集落の入り口まで迎えにきてもらった。集落のつくりも不思議だった。一軒,一軒が背丈の高い細葉垣根で囲まれ,家々をつなぐ細い道も複雑に曲がりくねっていた。そして,どの家も屋敷のなかに大きな木があって,集落全体がこんもりした森に見えた。いま,思いかえせば,わたしの住んでいた大村町の友達よりも,みんな一人ひとりがしっかりしていたように思う。女の子も同じだ。しっかり者という意味では,さっちゃんはその筆頭だった。ふさえさんもしっかりしていた。
うーん,そういうことであったか,といまさらのように思う。
というような具合で,この本を読み終えるまで,しばらく仕事も手につかなくなりそうだ。中味が初めて知ることばかりだ。こんな本はこれまで接したことがなかった。しかも,大部だ。困ったものだ。その意味で,『けんちく体操』とは別の意味で,この本もまたまぎれもない「奇書」である。だからこそ面白い。歴史はロマンだ。
わたしはこういう本がとどくと,すぐに吸い込まれるようにして読みはじめてしまう。忙しいときには困ることもあるのだが,たいていはとても面白いのだ。この本も面白い部類の筆頭だ。読みはじめたら止められない。困ったものである。
それには理由がいくつもある。
一つは,「穂国」とはわたしの出身地である東三河地方の古称だから,その中味は,全部,わたしにとっては馴染みのある話ばかりだから。
二つには,この「穂国」に持統天皇が行幸したのはなぜか,という古代史の謎解きからはじまっているから。
三つには,わたしのこどものころのお祭りで踊られていた「笹踊」の由来がくわしく書かれているから。
四つには,小学校の同じ校区である長瀬町の「冨永」一族の歴史が語られているから。さっちゃんは旧姓「冨永」。著者の柴田さんは,さっちゃんのお父さん(つまり,柴田さんのおじいさん)から聞いたという話をてがかりに「冨永」の出自を歴史的にたどりはじめる。
五つには,菅江真澄(東三河出身)の謎解き(この人は謎だらけの人)に踏み込んでいること。
などなど。
恥ずかしい話ながら,古代史にはほとんどうといので,持統天皇が穂国(東三河)に行幸されたということも知らなかった。著者によれば,持統天皇がわざわざ軍を率いて伊勢から舟で穂国にやってこなければならなかったほどの「理由」があったはずだ,という。それが「穂別の祖・朝廷別王」を歴史から抹消するためだったのでは・・・と著者は仮説を立てる。そして,これまで語られることのなかった東三河の古代史が浮かびあがってくる。
このことを知って,あっ,と思ったことが一つあった。それは,額田王がこの地に住んだという伝承があって,なぜだろうととかねがね疑問には思っていたこと,そして,額田郡という地名がいまも残っていること,である。
持統は天武の正妻である。額田王は天武の寵愛をうけ一子(十市皇女・といちのひめみこ)をもうけている。まことに素人っぽい推測をすれば,額田王を大和の地からこの地に移し,封じ込めたのではないか。あるいは,もっと推測すれば,額田王とともに兵を残し,「穂別の祖」の見張りをしていたのだろうか,などと思ったりする。この辺りのことは単なる当てずっぽう。でも,むかしからの疑問なので,なんとなくわくわくしてくる。
もうひとつだけ。長瀬町の冨永は,もともとは野田城主だったという。その野田城は,菅沼一族によって乗っ取られてしまった(この辺りのことは,宮城谷昌光著『風は山河より』(新潮文庫,全6巻に詳しく描かれている)。そのために,冨永一族は長瀬町に流れてきたのだ,という。しかも,興味深いことに,野田城主だった富永は首を刎ねられたということを記憶するために,以後,「富永」ではなく,頭に点のない「冨永」と名乗ることになった,という。このことを,著者は,祖父から直接聞いた,という。
わたしは長瀬町のとなりの大村町に住んでいたのだが,そういう話は初耳であった。こどものころ,さっちゃんのほかにも「冨永」君という友達がいて,長瀬の集落に遊びに行ったことがある。そのときの記憶では,集落全体に一種独特の雰囲気があって,なかなか入りづらいものを感じたことを覚えている。だから,ひとりで行ったことはない。いつもだれかと一緒だった。あるいは,冨永君に集落の入り口まで迎えにきてもらった。集落のつくりも不思議だった。一軒,一軒が背丈の高い細葉垣根で囲まれ,家々をつなぐ細い道も複雑に曲がりくねっていた。そして,どの家も屋敷のなかに大きな木があって,集落全体がこんもりした森に見えた。いま,思いかえせば,わたしの住んでいた大村町の友達よりも,みんな一人ひとりがしっかりしていたように思う。女の子も同じだ。しっかり者という意味では,さっちゃんはその筆頭だった。ふさえさんもしっかりしていた。
うーん,そういうことであったか,といまさらのように思う。
というような具合で,この本を読み終えるまで,しばらく仕事も手につかなくなりそうだ。中味が初めて知ることばかりだ。こんな本はこれまで接したことがなかった。しかも,大部だ。困ったものだ。その意味で,『けんちく体操』とは別の意味で,この本もまたまぎれもない「奇書」である。だからこそ面白い。歴史はロマンだ。
3 件のコメント:
拙著『穂国幻史考』紹介頂きありがとうございます。
過分な評価に恐縮しています。
これからもご指導、ご教授お願いします。
面白い話ですね。
さっちゃんの息子さんが、こんな研究をされているとは、驚きでした。
私の高校の同級生に、穂の国に惚れ込んで、現在ボランティアで穂の国ガイドをしているのがいます。
浜松市に住んでいる冨永といいます。柴田晴廣さんの「穂国幻史考」、入手しました。首無冨永の話はおもしろかったです。私も昔、祖母や父から、先祖が首をとられて、名字の冨の頭に点がないと聞かされた記憶があります。豊橋市の長瀬町も一度訪ねてみたいものです。ちなみに私の先祖は静岡県佐久間町です。情報がありましたらお教えください。
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