このタイトルはそのまま素直に受け止めてみると以下のようになろうか。
動物的世界の内在性を生きているときの「内在的な諸要素」,すなわち,環境世界のすべての存在,たとえば,植物,動物,大気現象,精霊,われわれ自身(対自),などを人間性の世界の存在である「物=客体」(オブジェ)として定置すること,という具合に。もっとくだいて言ってしまえば,動物性の世界にあったものを人間性の世界に引きずり出してきて,物=客体(オブジェ)として定置すること,となろうか。
では,バタイユは具体的になにを言おうとしているのか。思い切って単純化して言ってしまえば,つぎのようになろうか。つまり,動物性の世界から人間性の世界へ離脱し,移行する,このときに「われわれ自身」(原初の人間であり,主体であり,対自であるもの)は動物性と人間性の二つの世界に引き裂かれた状態にあるので,二つのことが同時進行していくことになる。すなわち,「われわれ自身」は,内在的な諸要素と溶け合って存在しつつ,徐々に内在的諸要素を物=客体(オブジェ)として認識するようになる。
この進行状態が進展する程度に応じて,われわれ自身をも物=客体(オブジェ)として認識するようになる。われわれ自身とは,主体であり,「対自」のことである。物=客体(オブジェ)とは文字どおり客体であり,「即自」のことである。こうして,主体と客体の混同がはじまるのである。バタイユは,このことを「主体-かつ-客体」というカテゴリーを設定して説明している。
「ついにわれわれは,出現してくる各々の姿──すなわち主体(われわれ自身),動物,精霊,世界──を,同時に内からと外から統覚するようになり,さらにはわれわれ自身に対して連続性として,かつまた同じく物=客体として統覚するようになるのである。」(P.40.)
「その要素は同時に主体のあらゆる属性と客体のあらゆる属性を,混ぜ合わせて保持するからである。道具の超越性と道具の使用に結ばれたなにかを創り出す能力は,このような混同された状態において,動物,植物,大気現象にそれらの属性として付与されることになる。また同様にそういう超越性や創作能力は,世界の全体にも属性として付与されるのである。」(P.40.)
さて,スポーツ文化論的読解をめざすわれわれとしては,バタイユのいう「主体-かつ-客体」という混同した存在の様態をしっかりと視野に入れておきたいとおもう。なぜなら,われわれの遠い祖先が,動物性から人間性へと移行するときに,自分自身の存在が「主体-かつ-客体」という混同した状態を通過してきた,という事実に注目しておきたいからである。そして,この混同した要素(「主体-かつ-客体」)があらゆるものの属性として,動物,植物,大気現象,世界,自分自身にまで付与されることになる。
ここからさきは,授業の中で議論したいことがらとして,あらかじめ提起しておくと,この「主体-かつ-客体」という人間の存在様態と,こんにちの「スポーツする身体」の存在様態には,あるところで通底しているものがあるのではなかろうか,という仮説である。この仮説を問題提起としてあらかじめ提示しておくので,なんらかの答えを用意しておいてほしい。
ひとまず,この節はここまで。
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