この節はどのように読み解いたらいいのだろうか。
前節の「事物を主体として定置すること」の結果として,つまり,事物(ショーズ)が主体を確保することによって<最高存在>が誕生する,と,極論すれば,バタイユはそう主張しているように読める。しかし,このロジックは一筋縄ではいかないが,ひとまず,そのように了解しておくことにしよう。
バタイユはまず,つぎのような前提条件を提示した上で,議論を展開する。
「いまわれわれが,世界を連続した実存の様態(自分たちの内奥性に対して,また自分たちの深い主観性に対して)の光の下に了解している人間たちを想像してみるとすると・・・」(P.42.)
という冒頭の書き出しに注目したい。つまり,まだ,半分以上を内在性に生きている人間たちを想定した上で,つぎの議論に移っていく。
そういう状態にある人間にとって,「世界に一つの事物が持つ諸能力」(「動き,考え,語ることが可能な」事物)が「内在的な実存の様態がそうであるような神的な性格も合わせ持つ」ことになっても不思議ではない,とバタイユは言う。このことが,前節でバタイユが述べていたように「事物を主体として定置すること」ということの内実でもある。つまり,事物を主体として定置することによって,<最高存在>が誕生する道が開かれることになる。(いささか簡略に走りすぎ,ロジックをとばしてしまっているので,不可解であるかもしれないが,テクストをよく読んで補足しておいてほしい)
で,ここでも注意しておいてほしいことがらは,<最高存在>というものの誕生の仕方である。なぜなら,このからくりは現代社会にあってもなおその一部は生き長らえているのではないか,とわたしは考えるからだ。たとえば,スポーツ界にあっても,いろいろの性格をもった<最高存在>的存在があちこちで誕生しているように思えるからだ。この具体的なイメージについては,宿題としておこう。授業までに考えてきていただきたい。
もう少し,追加しておこう。ある事物に特定の超越性と能力が付与されれば,<最高存在>はいとも簡単に誕生する,と考えられないだろうか。ある事物とは,主体として定置されたものという前提条件があるものの(第3節),そこには「人間たち,動物たち,植物たち,星辰,大気現象・・・・こうしたものが同時に事物でもあり,また内奥性を持つ存在であるとすれば」という条件も付与されている。だとすれば,<最高存在>の誕生のきっかけはどこにでもある,ということになる。これもまた,動物性から人間性への移行の段階(内在性に半分以上も身を置いた段階)でこそ,いとも簡単に起こる現象の一つということになろうか。だとすれば,現代社会にあってもなお<最高存在>がいとも簡単に誕生することの意味を考えなくてはならない。このことを考えていくと,恐るべき深淵が顔を覗かせる。そこにみえてくるものはなにか。授業までの宿題とする。
そのことと関連して,この節の最後のところでバタイユはきわめて重要な指摘をしているので,そこをとりあげてみよう。
「私はこのような意図せざる貧困化と限界づけの性格を強調すべきであると思う。キリスト教徒たちは今日なんの躊躇もなく,いわゆる『原始人たち』がその記憶をなんらかの形で保存しているようなさまざまな<最高存在>の内に,自分たちが信ずる<神>の原初的な意識を認めている。しかしながらこの生まれつつある意識は,動物的な感情の開花であるのではなくて,むしろ逆に償いようのないその減退であり,衰弱なのである。」(P.44.)
バタイユは<最高存在>を生み出した意識は,動物的な感情の「減退であり,衰弱なのである」と強い口調でなじっている。なぜなら,この意識が,バタイユが重視する「動物的な感情の開花」のチャンスを放棄してしまったからである。ここにも,バタイユの主張する<横滑り>の悔恨が込められている。つまり,人類史にとっての後戻りの不可能な悔恨というべきか。
このことと,スポーツ界に雨後の筍のごとく頭をもたげる<最高存在>の乱立と,その活躍(無謀ぶり)は無関係ではない,と考えるのだがどうだろうか。授業での応答を楽しみにしよう。
この節は,とりあえず,ここまで。
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