2010年12月14日火曜日

3.事物を主体として定置すること。

 「事物を主体として定置すること」,まるで,禅問答のようである。事物とはショーズ。物=客体をオブジェとすれば,事物はさらに人間性の世界に踏み込んだ存在。物=客体が「主体-かつ-客体」の「客体」に相当するとすれば,事物は「主体」に相当する。つまり,主体によって所有されているもの,あるいは,主体に従属するもの,と考えられているから。ところが,この主体に従属しているはずの事物が主体となる,というのだから・・・・・。禅問答たる所以。
 「たとえば一本の矢を,自分の同類とみなすことが可能であり,しかもだからといってその矢を操作=作業する能力や物としての超越性を取り除くことなしにそうすることができるのである。その事情を極限的に見ると,このような具合に転位された物=客体は,それを着想し,考え出す者の想像力の中では,その人自身がそうであるものと異ならなくなる。彼の眼にはこの矢は,彼と同じように動き,考え,語ることが可能であると見えるのである。」(P.41.)
 この文章を読みながら,わたしはオイゲン・ヘリゲル著『弓と禅』を思い浮かべている。この中では,自分を無に帰すること,弓と一体化すること,などが語られている。禅の世界ではこのような「転位」は当たり前のこととして認知されている。また,竹内敏晴さんが語ってくれた「一万射」の話を。竹内さんもまた禅には相当に深く踏み込んだことのある人だ。しかも,弓の名人でもあった。弓をもつ左手(ゆんで)が的のなかに突き刺さっているような感覚になったことがある,とも。
 「一本の矢を,自分と同類とみなす」という,ここでのバタイユの文意は,明らかに,内在性の内に入るということであり,動物性の世界に入ることを意味する。しかし,「その矢」の超越性や作業能力を取り除くことなしに「同類とみなす」となると,これは人間性の世界での問題である。物=客体よりもさらに一歩人間性の世界に接近した「一本の矢」=事物と「同類」となる(内在する)ということは,なにを意味しているのだろうか。
 人間が所有しているはずの,つまり人間の事物としての「一本の矢」と,その矢を所有しているはずの人間が「同類となる」,つまり「一体化」するということ。これは,まぎれもなく禅僧の到達したある境地とほとんど違わない。たとえば,『十牛図』でいう「人牛一体」となることと,ほとんど同じことを言っている。
 しかし,バタイユは,われわれ自身が動物性から人間性へと移行する過程で起きたであろう,本質的な問題として,つまり「主体-かつ-客体」という存在様態を説明するために,この話を持ち出したにすぎない。とはいえ,禅でいうところの坐禅修行は,ベクトルが逆である。禅では,人間性のなかにふくまれている世俗性をいかにして排除し,明鏡止水の境地に到達するか,が目指されることになる。言ってしまえば,人間性から内在性(動物性)への離脱と移動である。
 にもかかわらず,バタイユの言うことと禅の目指すものとが,ここで「対面」することになる。この問題をどのように考えたらいいのだろうか。禅の思想に支えられながら,その骨格を明確にしてきた武道は,まず間違いなく「事物との一体化」を重視している。つまり,「事物を主体として定置すること」を。
 柔道,剣道,弓道,などはもとより,日本の伝統芸能のほとんどのものが「事物との一体化」を目指している。ここにも,バタイユが提起する「主体-かつ-客体」というカテゴリーの問題が頭をもたげてくる。この問題は,わたしが主張している「わたしの身体がわたしの身体であってわたしの身体ではなくなる」地平と,どこかで通底しているようにおもう。
 とりあえず,この節はここまで。

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