2011年7月21日木曜日

八百長花盛り。大相撲の醍醐味。こんなに面白い場所はない。

大相撲名古屋場所が,俄然,面白くなってきた。なぜなら,みごとな「八百長」が花盛りだからだ。断わっておくが,わたしのいう「八百長」とは片八百長のことだ。つまり,片方の力士が一方的に相撲をこしらえているという意味だ。八百長ということばが生まれる前,つまり,谷風の時代には人情相撲と言った。そして,それは美談として持て囃された。わたしは,そういう相撲の楽しみ方が好きだ。その意味で今場所はみるべき内容が豊富だ。

ほんとうはこんなことは書くまいと思っていた。しかし,ジャーナリズムの相撲をみる眼が低俗化してしまって,相撲文化がますます痩せ細ってしまう,この状態を黙っているわけにはいかないと思い,書くことにした。「八百長」は大相撲の「華」である,とわたしは信じている。そして,そういう眼で大相撲の奥行きの深さ,広さを楽しんできた。今場所はみごとにそれが展開している。ほんとうの相撲通はそれを楽しんでいるが,アマチュアリズムに毒されたジャーナリストの眼にはなにもみえてはいない。それでいいのだ。ほんとうのプロの男芸者の演ずる,ほんものの「八百長」は素人の眼にはわからない。玄人筋だけが,ハラハラドキドキしながら,上手にやれよ,と密かに声援を送っている。

その面白さのほんの少しだけお裾分けしよう。ただし,これは,あくまでもわたしの独断と偏見にもとづく大相撲の楽しみ方であって,それが事実であるかどうかは神ならぬ身のだれにも,まったくわからない世界だ。そういう世界を楽しむこと,大相撲の醍醐味はそこにある,とわたしは勝手に信じている。だから,ますます面白い。

昨日の一番。白鵬と琴奨菊。みごとな,金のとれる八百長相撲。この相撲を八百長とみる人はほとんどいないだろう。しかし,わたしと同じように,この八百長はみごと,歴史に残る一番,と手を打って喜んでいるファンも少なからずいるはずだ。もちろん,ことの真相はわからない。しかし,そこを推理しながら勝負を楽しむ。これが大相撲の醍醐味。

白鵬が真の大横綱になるには,琴奨菊との一番に「負ける」ことができるかどうか,つまり,「勝ち」をゆずることができるかどか,にかかっているとわたしは考えていた。しかし,この八百長(片八百長)を成立させるためにはむづかしい条件がいくつも重なっている。ひとつは,「八連覇」がかかっている。もうひとつは,最大のライバル白馬富士が久しぶりに絶好調で全勝で走っている。しかし,新しい大関を誕生させないことには大相撲人気が凋落の一途をたどることになる。魁皇の引退もみえている(あるいは,内々には知っていたかもしれない)。

ここで琴奨菊を蹴落としてしまったら,白鵬は,かりに八連覇をなしとげたとしても人気は翳りをみせることになろう。そのことは,白鵬が一番よくわかっていただろうと思う。しかし,負けるわけにはいかない。かといって勝つわけにもいかない。そこで,いろいろと考えたはずである。ここで一つ負けをつくっておいて(つまり,琴奨菊に大関になるチャンスを与えておいて),その上でひとふんばりして白馬富士に勝って,八連覇を達成するというシナリオが浮かんできたとしても少しも不思議はない。それが,もし,実現したら,白鵬はまさに大横綱の名をほしいままにすることができる。そして,人気も最高潮に達するだろう。大相撲人気の復活も間違いない。これはあくまでわたしの個人的な推理(しかし,ほぼ,間違いないという確信はある)にすぎない。

その結果は,琴奨菊の勝利。もののみごとに白鵬は「調子を下ろす」「格を下げる」と新聞は書いてくれた。これで「セーフ」である。しかし,これはなにを隠そう,わたしのいうところの「八百長」(片八百長)そのものなのである。わたしの眼からしたら,白鵬の八百長はいささか下手だった。もっと強烈に立ち会いで当たるべきだった。にもかかわらず,最初から「ふわっ」と立ってしまった。わたしは一瞬「まずい」と思った。が,なんとか琴奨菊の得意の型に入って,だれも文句の言えない流れができたので,なんとかことなきを得た。これでやれやれである。琴奨菊は大関になるための内容のある横綱戦の内実を示すことができた。

これで琴奨菊が大関になる道は開かれた。横綱がみずから率先垂範した。問題は,このあとの対戦相手たちがどのような取り口を残すかである。善戦して負ける,銭のとれる大相撲をみせることができるかどうか。大相撲ファンは,単なる勝ち負けだけではなく,その内実をも楽しむこと。そうなったときに,力士はますます腕をみがいて「八百長」で銭がとれるようにならなくてはならない。かつての,栃錦と若乃花のように。

苦労したのは,魁皇と対戦した力士たちである。初日の嘉風は,八百長疑惑をかけられるのが怖くて,一直線の勝負にでた。これはこれでいい。しかし,嘉風の相撲はまだまだ「青いなぁ」と思った。案の定,翌日からだれも手抜きをしてくれない真剣勝負がつづき7連敗を喫してしまった。これでいいのである。これで嘉風はますます強くなってくるだろう。この壁をぶち破る力をつけること。そして,貸し借りの勘定もできるようになること。大相撲は勝てばいいという単純なものではない。どういう勝ち方をするのか,どういう負け方をするのか,これが大事。

魁皇がおすもうさんとして,どれほどみんなに好かれていたかは,引退会見を聞いていてよくわかった。あの晴々とした顔が,そのなによりの証拠だ。土俵に上がるときの魁皇の顔はまるで別人だ。ほっとしたことだろう。

今場所の台風の目は白馬富士。これで,白鵬との対戦がいまからとても楽しみ。白馬富士としては,白鵬と琴奨菊との一番が頭に焼きついているはずだ。だとすれば,本割で白鵬に負けておいて,優勝決定戦に持ち込む,というシナリオが当然描かれるはず。そこに持ち込んだら白馬富士も立派。みずからの横綱への道もできる。こうして新大関誕生も実現したら,大相撲人気もふたたびもとにもどるだろう。

この他にもいろいろの「読みすじ」がある。それは大相撲みる「目」のレベルによって異なる。それぞれが,個々人のレベルで大相撲を読み切りながら楽しむこと,それが「ツウ」に到達するための大相撲の楽しみ方である。

終わってみれば白鵬。しかし,来場所に白馬富士の横綱昇進の道を残すこと。そのシナリオをだれにも気づかれないように展開していくこと。これがプロの力士の芸だ。その意味で,大相撲は芸能なのだ,とわたしは理解している。だから,その芸能としての大相撲を楽しむこと。近代スポーツのような「勝ち負け」だけですべてを判断してはならない。勝ち方,負け方に深い味わいがある。そこを味わうこと,それが大相撲の醍醐味だ。

わたしは個人的には白馬富士に大いなる期待を寄せている。かれの相撲がどのようにして完成するか,そのときが横綱を張るときだ。頑張れ,白馬富士!


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