いまにはじまったことではないが,みずから発した言説が物議がかもしだすと「ことば足らずでした」という弁明が行われる。たしかにやむを得ない場合もあるが,そのほとんどは不注意というか,無神経というか,鈍感な場合が多い。なかには「確信犯」だと丸見えなのに,本意が伝わらなくて残念,などと嘯く「ベテラン」も少なくない。
その多くは政治家なのだが,最近は,その「流行」が徐々に拡散をはじめ,財界,官僚,学者(御用)さんにおよび,とうとう良心的と目される知識人や評論家に及んでいる。とりわけ,「3・11」以後の言説に多い。このことについては考えるところがあるので,いつか,きちんと私見を述べてみたいと思っている。
さて,今日は,香山リカさん。これまでの言説についても,時折,おやっ?と思うこともあったが,この人のバランス感覚のよさと独自の分析の鋭さに,わたしは賛意を示してきた。しかし,今回の「おやっ?」はそんなに単純ではなさそうだ。
香山リカさんの書いているブログがネット上で話題になっている。賛否両論が飛び交っているが,わたしは,今回に関してはいささか厳しい点をつけざるをえない。どうして香山さんが,こんな内容のブログを書いてしまったのか,そして,そのブログに対する読者からの異議申し立て(書き込み)が殺到しているというのに,その対応がこの程度でいいのだろうか,とむしろ同情しつつも,こころから危惧している。
もうひとこと申し添えておけば,香山リカさんとはある雑誌の「クロス・カルチュラル・レヴュー」というコラムで,時折,同じ映画や単行本を評論するというお仕事でご一緒させていただいている。だから,本来ならば,わたしとしても香山リカさんを全面的に「擁護」する立場を貫きたいところである。が,今回ばかりは,黙って無視するわけにもいかない重要な問題をはらんでいるので,わたしとしても「ひとこと」意見を述べておきたいと考えた次第。意とするところをおくみ取りいただければ幸いである。
問題になっている香山リカさんのブログは以下のとおりです。
香山リカの「こころの復興」で大切なこと──震災で負った傷をいかに癒すか──
第12回・2011年7月1日,小出裕章氏が反原発のヒーローとなっかもう一つの理由
香山さんのブログは以下のようにはじまる。
「震災や原発事故は『まるでなかったかのように』して,3・11以前の生活に戻ってしまおうとする人が増えています。そして前回お話ししたように,現代社会は『被災者支援を持続させられない社会』になっています。
その一方で,ネットの世界を中心に,原発事故にのめり込んでいる人たちがいます。
彼らの多くは,知的レベルが高く,情報収集に熱心で,いまの世の中の趨勢を注意深く見ている人たちです。
特に,これまで一般社会にうまく適応できなかった,引きこもりやニートといった人たちがその中心層の多くを占めているように見えます。」
という具合に冒頭から,なにやら怪しい雰囲気が漂っています。精確を期すためには,香山さんのブログの全文をそのまま引用しておきたいところです。しかし,かなり長いので全文を引用できないのが残念。で,わたしが受け止めた要約を以下に述べておきます(が,これはあくまでもわたしの受け止め方にすぎませんので,必ず,香山さんのブログを直接読んで確認してください。その上でご意見をいただければ・・・と思います)。
問題の核心は,引きこもりやニートといった人たちは,結局は,自立できない親がかりで面倒をみてもらわなくてはならない「適応障害」だ,と精神科医としての立場を明らかにした上で,その彼らが小出裕章さんを「神さま」のように崇拝していて,それが「小出裕章氏が反原発のヒーローになったもう一つの理由」だ,というのだ。なぜなら,引きこもりやニートにとっては,もうすぐ定年を迎えようとする小出裕章さんもまた教授にも準教授にもなれずに「助教」という身分に甘んじたまま我慢してきて,ようやく日の目をみたヒーローにみえるからだ,という。
香山さんの意図としては,小出裕章さんが反原発のヒーローとして一躍有名人となった背景には,こんな一面もあるんですよ,と精神科医としての「まなざし」からの分析結果を紹介した,ただそれだけのつもりなのだと思います。しかし,わたしが読んでも,この第12回目のブログに関するかぎり,香山さん大丈夫ですか,と声をかけたくなってしまいます。あまりに香山さんらしからぬ「軽さ」とある種の「毒」を感じてしまうからです。
ひとつには,引きこもりやニートと呼ばれる人たちがどのようにして小出裕章さんを「神さま」にまつり上げたか,という点については香山さんの意見に逆らうものはなにもありません。しかし,そこで終わってはいけなかった,とわたしは思います。なぜなら,小出裕章さんは,引きこもりやニートの人たちが勘違いして「思い込んだ人物」とはまったく違う人なのですから。少なくとも,反原発という姿勢を貫きとおして,この何十年もの間,各地の反原発の裁判闘争にも証人として立ち,機会があればどこにでもでかけていって,みずからの主張を明らかにしてきた,きわめて意志の強い「闘う人」である,という事実を書き添えるべきだったのではないでしょうか。このことをきちんと明言しなかったことの意味を,わたしは考えてしまいます。「ひょっとしたら,香山リカさん,あなたもまた・・・・?」と。
しかし,このブログを読んだ読者の多くが不思議な反応を示しました。ここには一応,賛否両論がある(現在も進行中),と紹介しておきます。質の悪いどぎつい否定論はともかくとして,冷静な否定論には耳を傾けるべき意見が多くあります。ですから,香山さんは〔号外〕と称して,「前回のコラムについて──お詫びと補足」を7月5日付けで書いています。
「前回のコラムについて多くの方から批判的なご意見をいただき,言いたかったことの真意がうまく伝わっていなかったことに気づかされました。私の言葉足らずが招いたことです。お詫びと補足をさせてください。」
こんなことで済ませてしまっていいのでしょうか。
ほんとうに「言葉足らず」だったのであれば,真意はこういうことでした,と〔補足版〕をもう一度,書くべきではないでしょうか。それもなさらないということの真意がわかりません。たぶん,「時間がない」とおっしゃるでしょうが・・・・。でも,そういう問題ではない,とわたしは考えます。
わたしが講釈するまでもなく,ことばは生きものです。一度,書いたことばは「一人歩き」をはじめます。もはや,著者の手のとどかないところに行ってしまいます。それでもなお,あの文章は間違いだ,いや,誤解を与えた,とおもったら,「書き直す」しか方法はないでしょう。
あの第12回目の文章をそのまま残すとしたら,それはそれで香山さんなりのお考えがあってのことと,わたしは受け止めます。それはそれで立派なことだと思います。
たぶん,そのあたりのことが第13回目のブログとなって登場するのだろう,とわたしは期待したいと思います。次回こそ,わかりやすい(いつものような)文章で,説得力のある内容を提示してくださることを楽しみにしたいと思います。
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