数年前に,いま考えてみればまことに分不相応にもかかわらず,大会本部席の村岡理事長さんの横に坐らせていただいて,なにもわからないまま見物させていただいたことがあります。しかも,わたしの横には李自力老師がつきっきりで,目の前に繰り広げられる競技を事細かく解説してくれていたのです。こんな話を,太極拳関係者にすると,間違いなく羨ましがられて「どうして?」という問いが跳ね返ってきました。この応答にはいつも困ってしまうのですが,いつか,この関係(李自力老師とわたしとの関係)についてもきちんと書いてみたいと思っています。
が,今日は,まだ興奮冷めやらないうちに,自選難度競技部門の面白さについて書いておきたいと思います。自選難度競技部門と聞いても太極拳について知らない人にとっては「なんのこっちゃ」という話になってしまいます。簡単に言ってしまえば,太極拳のスポーツ部門と考えてもらえばわかりやすいかと思います。つまり,太極拳の世界選手権大会で競われる競技種目だと思ってください。この中には,男女それぞれの「南拳」「長拳」「太極拳」の三つの部門があります。
この競技がはしまりますと,一気に会場が盛り上がってきます。
それぞれに応援団が控えていて,「コーキ」「ジャアオ」,「コーキ」「ジャアオ」という呼吸の合った掛け声が飛び交います。解説するまでもなく「コーキ」は選手の愛称,「ジャアオ」は中国語の「加油」で,直訳すれば「頑張れ」(油を加えて燃え上がれ,ということなのでしょうか)ということだ,とわたしと一緒に観戦してくれた劉志さんの説明。この掛け声がじつにタイミングよく飛び交う。一応のルールがあるらしく,選手の名前が呼び上げられたときと,演技の後半の息切れがしてくるタイミングを見計らって,声援が飛ぶ。聞いていて心地よい。歌舞伎の「音羽屋」という掛け声や,大相撲の「日馬富士ーっ」という掛け声と同じである。劉志さんも南拳が専門なので,この演技の途中で「呼吸困難になって死ぬ思いになる」という。ああ,それはわたしの経験でいえば体操競技の「ゆか運動」がまさにそれと同じ。1分30秒の「ゆか運動」の演技は,呼吸との勝負。途中で酸欠になって,このまま死んでしまう,という経験をわたしもしているので,わがことのようにわかる。でも,体操競技は演技の途中では声をかけない。たった一人で孤独な闘いに挑む。が,太極拳は応援席と一体化している。これはいいなぁ,としみじみ思う。
南拳の女子の小島恵梨香さんのことは昨日のブログで書いたとおり。
南拳のあとに長拳が行われた。こちらも,とてもダイナミックで,みていて楽しい。体操競技のゆか運動と似た要素がたくさんあるので,わたしにも上手・下手の違いがなんとなくわかる。だから,みていて楽しい。点数も予想しながら楽しめる。眺めているうちに,わたしの予想点数と審判の点数とが,どんどん誤差がなくなっていく。これは楽しめる。
体操競技と同じ「側宙」や「ネックスプリング」という技が長拳には入っているが,これは体操選手の演技を取り入れるといいな,と思った。滞空時間が短いのである。どのように跳ねると滞空時間が長くなるかは体操競技の選手たちは知っている。「ネックスプリング」はもっともっと大きくすることができる。もっと,ポーンと大きく撥ね上げておいて,空中で相手を睨み付けるくらいの余裕が生まれたら,もっとすごい演技になると思う。これは外野席のたわごとかも。でも,やれるのだからやってみたら面白いと思う。
さらに感動したのは,自選難度競技部門の「太極拳」。数年前に比べたら,とてもアーティスティックになったと思う。ひとつは選手のレベルが高くなったこと。それともう一点は音楽。音楽と演技とが協調・共鳴したとき,太極拳のもう一つの可能性が開けてくる。これは,今回の発見であった。これまでは,音楽が未熟だったように思う。今回は,全部ではないが,何人かの音楽は素晴らしかった。演技内容とぴったり一致していて,アートだなぁ,と感じた。
体操競技の女子のゆか運動や,フィギュア・スケートの演技と同じだ。選曲・編曲のうまさ(演技との同調性)が勝敗に大きく影響する。ここはセンスの問題だ。選手なのか,コーチなのか,音楽家なのか,さて,だれのセンスが問われるのか。でも,演ずるのは選手なのだから,わたしとしては選手のセンスが問われるべきだと思う。
その意味で,今回,わたしの印象に残ったのは女子・太極拳の宮岡愛選手。3人の選手が登場してその技を競ったのだが,みんな,とびきり上手い。甲乙つけがたいほど上手い。そして,身体能力もきぬて高い。しかし,演技の違いはみごとに現れている。みんな,それぞれの個性を生かして,得点を高くしようと工夫していることは手にとるようにわかる。そして,みんて上手い。なのに,その違いはどこからくるのか,と考えてみる。それはまさに体操競技と同じなのだ。「自選難度」をどのように組み合わせて印象づけるか,それを音楽がどこまでバックアップすることができるか。そこに心血をそそいでここに登場してきたな,ということも手にとるようにわかる。なのに,その差は歴然としてでてきてしまう。
ここまでくると,もはや,太極拳の自選難度競技は,アーティストとしてのセンスの問題ではないかとわたしは思う。体操競技もそうだし,フィギュア・スケートもそうだし,選手たちは,もはや立派なアーティストなのだ。そのレベルでの競争が展開している。だから,みていてとても面白い。逆にいえば,その選手の内面を垣間見ることも可能だ。プロポーションは演技では大事ではあるが,それ以上に,からだ全体から発散されてくる自由奔放な「遊び」ごころのようなものが,それをはるかに上回るなぁ,と眺めていて感じた。それは,西田幾多郎のいう「行為的直観」の世界にも通底することがらだ。そここそが武術太極拳の究極の美の世界であるはずだし,人間の存在の普遍につながる問題であろう,と密かに考えたりしていた。
この問題はいつかまた別のテーマのときに触れてみたいと思う。
毎年,みごとに進化している武術太極拳選手権大会がこれからどういう方向に向かっていくのか,わたしなりにとても楽しみにしているところだ。この点については,李自力老師と,また,機会をみつけて大いに語り合いたいと思っている。同時に,選手の人たちにもインタヴューしてみたいなぁ,と思っている。いつか,チャンスを見つけて。
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