2011年7月24日日曜日

橋本一径著『指紋論』(青土社)を再読。

昨日(23日),「ISC・21」7月大阪例会(会場・大阪学院大学,世話人・松本芳明)が開かれ,橋本一径さんの『指紋論』の合評会がおこなわれた。もちろん,著者の橋本さんにお出でいただいて,熱の入った議論がおこなわれ,とても楽しい会であった。

司会進行役は松本芳明さん。コメンテーターは,井上邦子さん(奈良教育大学),竹村匡弥(21世紀スポーツ文化研究所特別研究員),三井悦子(椙山女学園大学)の3人。井上さんはモンゴルの伝統スポーツ研究の立場から,竹村さんはカッパ研究の立場から,三井さんは身体論の立場から,それぞれユニークな『指紋論』読解を提示され,そこから著者橋本さんへの問題の投げかけがおこなわれた。そして,それらのコメントにたいして,橋本さんから丁寧な応答があり,わたしの頭もフル回転。久しぶりに興奮した。

以下には,わたしの頭のなかにつよく印象づけられたことがらについて,いくつかを記録(記憶)するつもりで書いておくことにする。

まず最初は,指紋が脚光を浴びることになるヨーロッパ近代,とりわけ,19世紀の後半という時代はどういう時代だったのか,ということだ。写真が登場し,心霊主義が誕生し,幽霊の存在が注目され,わたしをめぐるアイデンティティが議論され,指紋という「不変なるもの」への信頼と疑義が論じられ,人間(個人)の同一性の認証が問題となる時代。

その背景には,ヨーロッパ中世のキリスト教的な世界観から抜け出し,ヨーロッパ近代の合理主義的な世界観へと移行していく時代の苦悩が隠されている,という。とりわけ,「魂」の問題をどのように処理していくのか,という課題がある,と。つまり,近代的な科学主義が否定する「見えないもの」(魂,など)との折り合いのつけ方が確定しないまま,揺らいでいるのでは,と。

これまで言い習わされてきた言い方をすれば,ニーチェのいう「神は死んだ」のあとを生きる人間(近代的人間)にとって,わたしの同定,つまり,神との契約なきわたしの同定をどのように諮るべきか。前近代的な人間の存在様式から近代的な人間の存在の仕方への変化にたいして,どのような対応が迫られることになったのか。すなわち,「わたし」なるものが宙に浮いてしまったヨーロッパ近代の個人主義の問題が浮かび上がってくる。

この時代は,なにを隠そう,スポーツ史的に考えてみてもきわめて重要な「謎」がいくつも秘められているのだ。健全娯楽運動というような,ある種の福音主義的な運動がイギリスでは展開され,このイデオロギーと近代スポーツの誕生とは密接・不可分な関係にある。アマチュアリズムのような考え方もまた,一種の差別主義を産み出し,選ばれた人間とそうでない人間とに二分し,二項対立や序列化をいやおうなく引き出すことになる。優勝劣敗主義の合理化である。このことがこんにちのスポーツ競技のあり方にどれだけ大きな影響を及ぼすことになったかは,測り知れないものがある。それは同時に,資本主義の合理化にも大いに貢献することとなった。

短絡的なもの言いを恐れずに指摘しておけば,ヨーロッパ近代が産み出したこの近代スポーツの論理(優勝劣敗主義,競争原理,自由競争,平等主義・・・など)が,姿・形を変えて,こんにちの原発問題に一直線につながっているのではないか,というわたしのなかにはほとんど確信に近い「憶測」がある。

指紋の問題も,わたしの観点からすれば,ここに直結する。
こんにちのわたしたちの存在は『指紋論』のなかで展開されている「幽霊」にも等しいのではないか。つまり,身体の不在,という点で。身体を構成する「器官」は存在する。だから,臓器移植が肯定される。しかし,身体となると,とたんにその具体性がどこかに雲散霧消してしまう。命を宿す「うつわ」としての身体をどこかに置き忘れてきてしまっている。だから,人間の命がどれだけ犠牲になっても,原発は必要だ,という議論が成立してしまう。そういう人たちが原発推進をごり押しする。片や,命を重視する人たちは,なにがなんでもまずは脱原発を主張する。すべては,そこから議論すべきだ,と。(このあたりのことは,いつか詳しく書いてみたいとおもう)。

人間を指紋で管理する発想も,総背番号制で管理する発想も,ほとんど同じだ。
※途中ながら,ひとまず,ここで切っておく。時間切れのため。折をみて「補足」するつもり。

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