今月のはじめに今福さんからこの新著が送られてきた。すぐに拾い読みをして,いきなり衝撃を受けてしまった。わたしがこれまでに読んできて理解したつもりでいたレヴィ=ストロースはいったい別人だったのだろうか,と。それほどまでに,この書のなかに描かれているレヴィ=ストロースは,生き生きとした人間そのものなのである。人間レヴィ=ストロースが忽然とわたしの前に立っている。そんな印象をまず最初にもった。
もうひとつの衝撃は,今福さんの文章が,いつもにも増して美しいのである。読んでいて涙が流れだす。なんだろうか,と考える。西谷修さんの本を読んでいるときにも同じようなことが起こる(たとえば,『理性の探求』岩波書店)。でも,それとは内容も質も違う。どこか別のものなのだ。しかし,わたしのこころの琴線に触れるという意味ではまったく同じだ。それもまったく予期せざるときに,突如としてやってくる。ぐっ,と詰まってしまうのだ。
名うての思考者であり書き手を俎上にのせて論評できる立場にはないが,それでも文章の美しさが
胸に「ジン」とくる。それはなにものにも代えがたい至福の時の到来である。嬉しくて仕方がない。なのに,突然,本を閉じてしまった。なぜか。
書けなくて困っていた原稿がいくつも残っている。こんな涙が流れるような本に魅了されていたら,ますます書けなくなってしまう。あまりにみじめな自分の文章に絶望してしまう。でも,引き受けた以上はきちんと書かなくてはいけない。と,みずからを鼓舞する。とにかく,締め切りのきてしまっている仕事を片づけてから,じっくりと読もう,と。
しかし,そんな時間のこようはずもない。つぎからつぎへと,野暮用が入ってくる。で,とうとう昨日からみずからの禁を破って,この本を最初から読みはじめた。どうせ締め切りはきてしまっているのだ,と開き直って。
まずは,冒頭の「リトルネッロ──羽撃く夜の鳥たち」で,この本のアウトラインが示される。それがまた詩を読んでいるような気分にさせられる。それでいて,レヴィ=ストロースへの深い愛情がそこはかとなく伝わってくる。いや,それどころか,今福さんとレヴィ=ストロースが一体化してしまっている。今福さんがレヴィ=ストロースになりきっている。いや,レヴィ=ストロースが今福さんに乗り移っている。そんな錯覚を起こしてしまう。そんなことが起きても,じつは,なんの不思議もない。2008年(この年に,今福さんは3冊もの大著を世に送り出している)には,レヴィ=ストロースとの共著『サンパウロへのサウダージ』(みすず書房)を書いているくらいだから。
以後,第一章 ジェネレーション遠望,第二章 サウダージの回帰線,第三章 かわゆらしいもの,あるいはリオの亡霊,第四章 夜と音楽,とつづく。こうして読み進んでいけばいくほど,今福さんとレヴィ=ストロースの境界は薄くなっていく。一人の偉大なる人物を「評論」ではなくて,「批評」するということは,こういうことなのかとわたしは考える。なぜなら,今福さんは,明らかに「評論家」と「批評家」とを区別していて,みずからの肩書は「批評家」だと表明しているからだ。
今福さんの文章の美しさは,詩的な感性から紡ぎだされるものであることは当然なのだが,その上に,さらに,全体重をかけた,ぎりぎりのところまでみずからの思考を追い込んだのちに飛びだしてくる「究極の言語」だからだ,とわたしは思う。だから,わたしの涙腺がゆるんでしまうのだ。今福さんの文章が,わたしの自己を超え出るところに知らずしらずのうちに誘ってくれる。その自己を超え出たと感じた瞬間,わたしの頬を涙がつたう。
第四章の「夜と音楽」にいたって,ようやく,この本のタイトルになっている「夜と音楽」の内実を知ることができる。レヴィ=ストロースが生涯をかけて追い求めてきたものが,今福さんの手にかかるとこういうことになるのか,とまさに眼からウロコである。あえて言ってしまえば,ヨーロッパ近代がとっくのむかしに置き忘れてきてしまった(いな,排除,隠蔽してしまった),時間のない世界,無の世界,動物性に近い世界,そこにのみ温存されている「生命」の豊穣さ,これをいかにして,現代社会のなかに「現前化」させるか,レヴィ=ストロースは考えつづけたのだ,と。
こういう章に出会うと,わたしがスポーツ史やスポーツ文化論をとおして考えつづけてきたことが無駄ではなかった,としみじみ思う。このことを決定的に教えてくれたのは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』だった。このバタイユもまた,マルセル・モースやレヴィ=ストロースを視野のなかにいれて,それを批判的に乗り越えようとした人である。
第五章 ドン・キホーテとアンチゴネー,を読み終えたところでまたまた衝撃が走る。レヴィ=ストロースとシモーヌ・ヴェイユの同時代人としての不思議な接点に,今福さんの透視術が冴え渡る。ギリシア神話に精通していたシモーヌ・ヴェイユと,まだ,神話世界に踏み込む前のレヴィ=ストロースとがニューヨークで出会って話をしている。このとき,なにが語られたのだろうかと,今福さんの想像力はフル回転する。たった二カ月しか年齢が違わない二人,1931年に哲学教授資格試験を同時に受験してともに合格した二人。
と,ここまで読んだところでこのブログを書いている。
残りはつぎのような章立てになっている。
第六章 野生の調教師/第七章 ヴァニタスの光芒/第八章 人間の大地/カデンツァ──蟻塚の教え。
あとは,書誌(これがとても丁寧),図版出典,あとがき。
最後まで読んだら,また,このブログに書きたくなるに違いなかろう。
とにかく,わたしにとってはとんでもない本が現れたものだ,と感じ入っている。今福さんの本はあとを引く。何回も何回も読みたくなるのである。この本は,それ以上のなにか恐ろしいほどの魅力に満ちあふれている。
そして,もう一度,レヴィ=ストロースの本を読み直さなくてはならなくなる。困ったものだ。でも,こんどは,もっともっと楽しく読めるはずだ。ありがたさと恐ろしさと相半ば,というところ。
もうひとつの衝撃は,今福さんの文章が,いつもにも増して美しいのである。読んでいて涙が流れだす。なんだろうか,と考える。西谷修さんの本を読んでいるときにも同じようなことが起こる(たとえば,『理性の探求』岩波書店)。でも,それとは内容も質も違う。どこか別のものなのだ。しかし,わたしのこころの琴線に触れるという意味ではまったく同じだ。それもまったく予期せざるときに,突如としてやってくる。ぐっ,と詰まってしまうのだ。
名うての思考者であり書き手を俎上にのせて論評できる立場にはないが,それでも文章の美しさが
胸に「ジン」とくる。それはなにものにも代えがたい至福の時の到来である。嬉しくて仕方がない。なのに,突然,本を閉じてしまった。なぜか。
書けなくて困っていた原稿がいくつも残っている。こんな涙が流れるような本に魅了されていたら,ますます書けなくなってしまう。あまりにみじめな自分の文章に絶望してしまう。でも,引き受けた以上はきちんと書かなくてはいけない。と,みずからを鼓舞する。とにかく,締め切りのきてしまっている仕事を片づけてから,じっくりと読もう,と。
しかし,そんな時間のこようはずもない。つぎからつぎへと,野暮用が入ってくる。で,とうとう昨日からみずからの禁を破って,この本を最初から読みはじめた。どうせ締め切りはきてしまっているのだ,と開き直って。
まずは,冒頭の「リトルネッロ──羽撃く夜の鳥たち」で,この本のアウトラインが示される。それがまた詩を読んでいるような気分にさせられる。それでいて,レヴィ=ストロースへの深い愛情がそこはかとなく伝わってくる。いや,それどころか,今福さんとレヴィ=ストロースが一体化してしまっている。今福さんがレヴィ=ストロースになりきっている。いや,レヴィ=ストロースが今福さんに乗り移っている。そんな錯覚を起こしてしまう。そんなことが起きても,じつは,なんの不思議もない。2008年(この年に,今福さんは3冊もの大著を世に送り出している)には,レヴィ=ストロースとの共著『サンパウロへのサウダージ』(みすず書房)を書いているくらいだから。
以後,第一章 ジェネレーション遠望,第二章 サウダージの回帰線,第三章 かわゆらしいもの,あるいはリオの亡霊,第四章 夜と音楽,とつづく。こうして読み進んでいけばいくほど,今福さんとレヴィ=ストロースの境界は薄くなっていく。一人の偉大なる人物を「評論」ではなくて,「批評」するということは,こういうことなのかとわたしは考える。なぜなら,今福さんは,明らかに「評論家」と「批評家」とを区別していて,みずからの肩書は「批評家」だと表明しているからだ。
今福さんの文章の美しさは,詩的な感性から紡ぎだされるものであることは当然なのだが,その上に,さらに,全体重をかけた,ぎりぎりのところまでみずからの思考を追い込んだのちに飛びだしてくる「究極の言語」だからだ,とわたしは思う。だから,わたしの涙腺がゆるんでしまうのだ。今福さんの文章が,わたしの自己を超え出るところに知らずしらずのうちに誘ってくれる。その自己を超え出たと感じた瞬間,わたしの頬を涙がつたう。
第四章の「夜と音楽」にいたって,ようやく,この本のタイトルになっている「夜と音楽」の内実を知ることができる。レヴィ=ストロースが生涯をかけて追い求めてきたものが,今福さんの手にかかるとこういうことになるのか,とまさに眼からウロコである。あえて言ってしまえば,ヨーロッパ近代がとっくのむかしに置き忘れてきてしまった(いな,排除,隠蔽してしまった),時間のない世界,無の世界,動物性に近い世界,そこにのみ温存されている「生命」の豊穣さ,これをいかにして,現代社会のなかに「現前化」させるか,レヴィ=ストロースは考えつづけたのだ,と。
こういう章に出会うと,わたしがスポーツ史やスポーツ文化論をとおして考えつづけてきたことが無駄ではなかった,としみじみ思う。このことを決定的に教えてくれたのは,ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』だった。このバタイユもまた,マルセル・モースやレヴィ=ストロースを視野のなかにいれて,それを批判的に乗り越えようとした人である。
第五章 ドン・キホーテとアンチゴネー,を読み終えたところでまたまた衝撃が走る。レヴィ=ストロースとシモーヌ・ヴェイユの同時代人としての不思議な接点に,今福さんの透視術が冴え渡る。ギリシア神話に精通していたシモーヌ・ヴェイユと,まだ,神話世界に踏み込む前のレヴィ=ストロースとがニューヨークで出会って話をしている。このとき,なにが語られたのだろうかと,今福さんの想像力はフル回転する。たった二カ月しか年齢が違わない二人,1931年に哲学教授資格試験を同時に受験してともに合格した二人。
と,ここまで読んだところでこのブログを書いている。
残りはつぎのような章立てになっている。
第六章 野生の調教師/第七章 ヴァニタスの光芒/第八章 人間の大地/カデンツァ──蟻塚の教え。
あとは,書誌(これがとても丁寧),図版出典,あとがき。
最後まで読んだら,また,このブログに書きたくなるに違いなかろう。
とにかく,わたしにとってはとんでもない本が現れたものだ,と感じ入っている。今福さんの本はあとを引く。何回も何回も読みたくなるのである。この本は,それ以上のなにか恐ろしいほどの魅力に満ちあふれている。
そして,もう一度,レヴィ=ストロースの本を読み直さなくてはならなくなる。困ったものだ。でも,こんどは,もっともっと楽しく読めるはずだ。ありがたさと恐ろしさと相半ば,というところ。
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