カズオ・イシグロの原作小説を映画化した,話題のDVDをみる。
映画化するにあたって,カズオ・イシグロが陣頭指揮をとったというだけあって,輪郭のはっきりした,そして,メッセージ性に富んだ,みごとな作品に仕上がっていて驚いた。そして,この映画は,原作の小説とは一線を画す,もうひとつの作品としてカズオ・イシグロが取り組んだことも伝わってきて,わたしとしては,大いに納得が行った。
なぜなら,映画が日本で封切られたころ,多くの映画評論家たちが「究極のラブ・ロマンス」という見方をしているのをみて,呆気にとられたからである。原作の小説を丹念に読みこんだつもりのわたしにとっては,まったく納得ができなかった。もし,ほんとうに「究極のラブ・ロマンス」だというのであれば,映画なと見る必要はない,と勝手に思い込み,映画館へは足が向かなかった。
つまり,小説を読んだときの衝撃はあまりにも大きく,いったい,この小説をどのように受け止めたらいいのだろうか,と不安にすらなった。これまで経験したことのないような,どこか異次元の世界に連れ出され,人間というものは環境と教育次第でいかようにもなるのだ,という恐ろしさに怯えた。
だから,不安になって,いつものように太極拳のあとの「ハヤシライス」の時間に,Nさんに意見を求めた。もちろん,Nさんもとっくのむかしにこの小説を読んでいて,「これは,ほぼ,完璧な小説」だ,という。小説として,文句のつけようのないほどの完成度の高い作品だ,と。そして,その根拠を一つひとつ取り上げて解説をしてくださった。Nさんの専門のひとつであるフランス文学を読み解くときと同じように,『わたしを離さないで』の文学としての位置づけをした上で,この作品が切り開いた,新たな文学としての可能性や貢献について,懇切丁寧に話してくださった。
これを聞いて,わたしの気持ちも落ち着き,もう一度,この作品を読み直してみた。なるほど,なるほど,と思いながらカズオ・イシグロの小説世界を満喫させてもらった。それは,やはり,どこまで行っても「人間の命」,あるいは「人間の生」とはなにか,という根源的な問いを,カズオ・イシグロはわたしたちに投げかけた問題作だ,という理解だった。
だから,この小説を映画化したとしても,それが「究極のラブ・ロマンス」になどなるわけがない,いったい,評論家の眼はどこについているのだろうか,と思ったのだ。その延長線上で,今回,DVDをじっくりと腰を据えて,ノートまでとりながら観た。なるほど,「究極のラブ・ロマンス」と言えば,そのように言えなくもない仕上がりになっている。しかし,「究極のラブ・ロマンス」を成立させる,その根拠には「人間の生」の極限に迫るカズオ・イシグロの鋭いメッセージ性を読み取ることが先決ではないのか。そこを見落としてしまったら,この映画は単なる「ラブ・ロマンス」で終ってしまう。もっとも,それはそれで構わない。映画とはそういうものなのだから。
しかし,わたしには,映画の最後のシーンでひとりごとのように主人公がつぶやく「人間の生を理解することなく,みんな終ってしまう」というセリフが,グサッと胸に突き刺さったままだ。なぜなら,73歳になってもなお,「人間の生を理解することなく」悶々と生きつづけている自分の姿が,写し鏡のようにみえてくるからだ。
しかも,映画の主人公のつぶやく「みんな終ってしまう」とは,臓器移植のためのドナーとして,20代の後半には「みんな」命を「終える」という意味だ。しかも,それを自分の至上の使命として受け止めることのできる「人間」を,「つくる」(人間の生産),そのプロセスを提示することがこの映画の最大のポイントだ。つまり,ものごころがつく以前から,出自の明らかでない「孤児」たちを集め,特別の施設で育て,教育をほどこし,成人させる,そして,立派なドナーとして,みずからの「命」を「終える」。
もちろん,現実にはありえない話である。しかし,臓器移植がごく当たり前のようにして普及しつつある現実と向き合うとき,なぜか,背筋が寒くなってくる。たとえば,梁石日の小説を引き合いに出すまでもなく,東南アジアのある地域では,子どもが誘拐され,育てられ,成人すると闇から闇へとドナーとして売られていく,という話もどこか現実味を帯びてくる。
また,いまのわたしたちの眼からみると,「原発安全神話」もまた,立派な「教育」の成果だったではないか。わたしも含めて,圧倒的多数の日本人は,みんな「原発」は安全だ,と信じていた。もちろん,ほんとうに大丈夫なのか,という一抹の不安を抱きながら。でも,国策として,国家がらみでなされた「教育」は立派に「効」を奏したのだ。わたしたちもまた,国家によって「つくられて」いたのだ。そして,いまも,その姿勢を変えようとはしない。どこまでつづく「ぬかるみ」ぞ。
がしかし,気がついたときには,もはや,手遅れである。
「人間の命」「人間の生」とはなにか。
これが,ガズオ・イシグロが,映画をとおして,鮮明なメッセージとして前面に押し出した問題提起ではないのか。しかも,「3・11」が起きる以前に。
日本で生まれ,イギリスで育ち,英語で小説を書くカズオ・イシグロのメッセージを,わたしはしっかりと受け止めていきたい。そして,このDVDだけでなく,原作の小説を併せて読まれることをお薦めしたい。また,カズオ・イシグロの小説のほとんどが翻訳されているので,こちらもお薦めしたい。わたしは,どの小説にも大きな感銘を受けた。
映画化するにあたって,カズオ・イシグロが陣頭指揮をとったというだけあって,輪郭のはっきりした,そして,メッセージ性に富んだ,みごとな作品に仕上がっていて驚いた。そして,この映画は,原作の小説とは一線を画す,もうひとつの作品としてカズオ・イシグロが取り組んだことも伝わってきて,わたしとしては,大いに納得が行った。
なぜなら,映画が日本で封切られたころ,多くの映画評論家たちが「究極のラブ・ロマンス」という見方をしているのをみて,呆気にとられたからである。原作の小説を丹念に読みこんだつもりのわたしにとっては,まったく納得ができなかった。もし,ほんとうに「究極のラブ・ロマンス」だというのであれば,映画なと見る必要はない,と勝手に思い込み,映画館へは足が向かなかった。
つまり,小説を読んだときの衝撃はあまりにも大きく,いったい,この小説をどのように受け止めたらいいのだろうか,と不安にすらなった。これまで経験したことのないような,どこか異次元の世界に連れ出され,人間というものは環境と教育次第でいかようにもなるのだ,という恐ろしさに怯えた。
だから,不安になって,いつものように太極拳のあとの「ハヤシライス」の時間に,Nさんに意見を求めた。もちろん,Nさんもとっくのむかしにこの小説を読んでいて,「これは,ほぼ,完璧な小説」だ,という。小説として,文句のつけようのないほどの完成度の高い作品だ,と。そして,その根拠を一つひとつ取り上げて解説をしてくださった。Nさんの専門のひとつであるフランス文学を読み解くときと同じように,『わたしを離さないで』の文学としての位置づけをした上で,この作品が切り開いた,新たな文学としての可能性や貢献について,懇切丁寧に話してくださった。
これを聞いて,わたしの気持ちも落ち着き,もう一度,この作品を読み直してみた。なるほど,なるほど,と思いながらカズオ・イシグロの小説世界を満喫させてもらった。それは,やはり,どこまで行っても「人間の命」,あるいは「人間の生」とはなにか,という根源的な問いを,カズオ・イシグロはわたしたちに投げかけた問題作だ,という理解だった。
だから,この小説を映画化したとしても,それが「究極のラブ・ロマンス」になどなるわけがない,いったい,評論家の眼はどこについているのだろうか,と思ったのだ。その延長線上で,今回,DVDをじっくりと腰を据えて,ノートまでとりながら観た。なるほど,「究極のラブ・ロマンス」と言えば,そのように言えなくもない仕上がりになっている。しかし,「究極のラブ・ロマンス」を成立させる,その根拠には「人間の生」の極限に迫るカズオ・イシグロの鋭いメッセージ性を読み取ることが先決ではないのか。そこを見落としてしまったら,この映画は単なる「ラブ・ロマンス」で終ってしまう。もっとも,それはそれで構わない。映画とはそういうものなのだから。
しかし,わたしには,映画の最後のシーンでひとりごとのように主人公がつぶやく「人間の生を理解することなく,みんな終ってしまう」というセリフが,グサッと胸に突き刺さったままだ。なぜなら,73歳になってもなお,「人間の生を理解することなく」悶々と生きつづけている自分の姿が,写し鏡のようにみえてくるからだ。
しかも,映画の主人公のつぶやく「みんな終ってしまう」とは,臓器移植のためのドナーとして,20代の後半には「みんな」命を「終える」という意味だ。しかも,それを自分の至上の使命として受け止めることのできる「人間」を,「つくる」(人間の生産),そのプロセスを提示することがこの映画の最大のポイントだ。つまり,ものごころがつく以前から,出自の明らかでない「孤児」たちを集め,特別の施設で育て,教育をほどこし,成人させる,そして,立派なドナーとして,みずからの「命」を「終える」。
もちろん,現実にはありえない話である。しかし,臓器移植がごく当たり前のようにして普及しつつある現実と向き合うとき,なぜか,背筋が寒くなってくる。たとえば,梁石日の小説を引き合いに出すまでもなく,東南アジアのある地域では,子どもが誘拐され,育てられ,成人すると闇から闇へとドナーとして売られていく,という話もどこか現実味を帯びてくる。
また,いまのわたしたちの眼からみると,「原発安全神話」もまた,立派な「教育」の成果だったではないか。わたしも含めて,圧倒的多数の日本人は,みんな「原発」は安全だ,と信じていた。もちろん,ほんとうに大丈夫なのか,という一抹の不安を抱きながら。でも,国策として,国家がらみでなされた「教育」は立派に「効」を奏したのだ。わたしたちもまた,国家によって「つくられて」いたのだ。そして,いまも,その姿勢を変えようとはしない。どこまでつづく「ぬかるみ」ぞ。
がしかし,気がついたときには,もはや,手遅れである。
「人間の命」「人間の生」とはなにか。
これが,ガズオ・イシグロが,映画をとおして,鮮明なメッセージとして前面に押し出した問題提起ではないのか。しかも,「3・11」が起きる以前に。
日本で生まれ,イギリスで育ち,英語で小説を書くカズオ・イシグロのメッセージを,わたしはしっかりと受け止めていきたい。そして,このDVDだけでなく,原作の小説を併せて読まれることをお薦めしたい。また,カズオ・イシグロの小説のほとんどが翻訳されているので,こちらもお薦めしたい。わたしは,どの小説にも大きな感銘を受けた。
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