こころの安寧に不安を感じはじめると,いつのまにか『般若心経』の解説書に手を伸ばしているわたしがいる。『般若心経』の解説書を読み漁る習慣は若いころからあって,自慢するわけではないが,いつしか溜まりにたまって,いまでは優に50冊は超えている。なかでもお気に入りの本は5冊ほど。このうちのどれかに手が伸びていく。その日の気分によって,選ばれる本は,いつも違う。それらの本をペラペラとめくりながら,拾い読みをするだけで,なぜか,気持が落ち着くのである。
その延長線上に,玄侑宗久さんの本がある。実家の寺(福島県三春町)を継ぐのがいやで,大学を卒業後も数えきれないほどの職業を転々としたが,やがて,一念発起して天龍寺の道場で修行をし,家業を継ぐ。そして,僧侶と作家という二足のわらじを履くことになる。そのいずれにも才能を発揮して,檀家には慕われつつ,芥川賞作家として活躍をしていることは,よく知られているとおりである。いまも,三春町から「3・11」以後とじかに向き合いながら,行動し,思考を深め,さまざまなメッセージを発信している。
学会が終わり,翻訳の仕事に一区切りがつき,長い間,つづいていた緊張が途切れ,突然の「空白」が生まれる。この「空白」の感じ方は個人差があるようだ。わたしの場合には,なんともいえない寂寥感が襲ってくる。寂寞といえばいいだろうか。そんなときは,ほぼ間違いなく『般若心経』を唱えはじめる。もちろん,声には出さない。が,口が動く。そして,やはり両親のことや,祖父母のことや,大伯父・大伯母のことが頭の中をよぎっていく。みんな,曹洞宗の寺につながる記憶ばかりである。これを「血」と呼ぶとすれば,そのとおりだ,と思う。わたしという個人を超えでたところの問題だ。そして,そういう人たちと記憶の中で向き合うことによって,わたしの寂寥感は徐々に落ち着き,納まっていく。
今回は,玄侑宗久さんの書いた『四季の公案』に手が伸びた。もともとは,雑誌にインタヴューとして連載されていたもので,それに手を加えて,単行本としたものである。だから,きわめて読みやすい。口語文をそのまま活かして,公案という難題を,わたしたちの身近な話題をとおして解きあかしてくれる。その文章がまた美しい。
正方形に近い形の,ちょっと変わった小型の本である。ところどころに,見開き全ぺージをつかって,四季折々の美しい自然を撮ったカラー写真が折り込まれている。これが,また,とてもいい。しばし,みとれてしまう。つまり,玄侑さんの地の文章と共振・共鳴しているのである。
四季ごとに章を分けて,いくつかのテーマを立てて,話を展開している。たとえば,「春」の章には,松,雪,節分,涅槃会,梅華,桃が,「夏」の章には,薫風,喫茶去,竹,青山,行雲流水,入道雲,施餓鬼が,「秋」の章には,お彼岸,月,西風,紅葉が,そして,「冬」の章には,成道会,煤払い,餅つき,除夜の鐘,という具合である。
今回は,なぜか,「夏」の章の行雲流水のテーマに眼がいき,わたしの気持ちは落ち着きを取り戻す。そこの書き出しはつぎのようである。
「諸行は無常なり,とお釈迦さまはとらえました。では,どう生きればいいのか,と言えば,『雲や水のごとくに』です。つまり,『行雲流水』は生き方の提案なんです。
修行僧を雲水といいますが,これは空を絶えず動いていく雲と,流れゆく水のように滞らないということです。」
というところから説きはじめ,「滞らない」ことの重要性を諄々と説いていく。
「お釈迦さまは,定住することなく行脚をし続けました。定住するとは,何かを所有することであり,『所有する』ということは,守らねばならないものができるということです。守らなければならないものを捨てて出家したのに,再び守らなければならないものができることにお釈迦さまは抵抗がありました。」
そうして,読んでいくと,「行雲流水」とは,一言で言えば「自由」です,と玄侑さんは断言する。そして,つぎのように説く。ここは,わたしにとっては新しい発見だったので,少し長いけれども,引用しておく。
「仏教語としての自由という言葉は,禅が使いだしたものです。六祖慧能(えのう)が『自由自在』という言葉を初めて使うんです。それまでは,『自由』という語は『勝手気まま』という意味でしかありませんでした。
六祖が言う自由自在とは,自在に変化できるということなんです。しかし,『私にはそんなことはできない』などと『私』のイメージを固定してしまうと,自在な変化ができなくなるわけです。
『私』というものは,相手とのかかわりのなかで,その時その場だけに現成するものです。あらゆる状況と相手に応じる力が『自由』であり,仏教では最も大切なことなのです。」
「行雲流水」は,太極拳の稽古でも,よく言われることばのひとつである。そして,なにものにもとらわれない「自由」をわがものとせよ,と。しかし,「わがもの」とした瞬間に,その「自由」は逃げて行ってしまう。ここが,また,むつかしいところ。
と,こんなところに思い至ったところで,わたしの寂寥感はどこかに消えている。それだけで,十分。ありがたい本だ。こんな話題が満載の本は,わたしにとっては,お気に入りの『般若心経』解説本に,もう一冊が仲間入りして,しばらくは楽しめそうだ。
のみならず,これからは仏教にかぎらず,もう一度,宗教とはなにか,信仰をもつとはどういうことなのか,ということを多くの人たちが考える時代に入っていくのではないか,と思いはじめる。とりわけ,「3・11」以後は。これから大きな波が寄せてくるような予感がするのだが・・・・・?
以上,玄侑宗久さんの『四季の公案』の紹介まで。
その延長線上に,玄侑宗久さんの本がある。実家の寺(福島県三春町)を継ぐのがいやで,大学を卒業後も数えきれないほどの職業を転々としたが,やがて,一念発起して天龍寺の道場で修行をし,家業を継ぐ。そして,僧侶と作家という二足のわらじを履くことになる。そのいずれにも才能を発揮して,檀家には慕われつつ,芥川賞作家として活躍をしていることは,よく知られているとおりである。いまも,三春町から「3・11」以後とじかに向き合いながら,行動し,思考を深め,さまざまなメッセージを発信している。
学会が終わり,翻訳の仕事に一区切りがつき,長い間,つづいていた緊張が途切れ,突然の「空白」が生まれる。この「空白」の感じ方は個人差があるようだ。わたしの場合には,なんともいえない寂寥感が襲ってくる。寂寞といえばいいだろうか。そんなときは,ほぼ間違いなく『般若心経』を唱えはじめる。もちろん,声には出さない。が,口が動く。そして,やはり両親のことや,祖父母のことや,大伯父・大伯母のことが頭の中をよぎっていく。みんな,曹洞宗の寺につながる記憶ばかりである。これを「血」と呼ぶとすれば,そのとおりだ,と思う。わたしという個人を超えでたところの問題だ。そして,そういう人たちと記憶の中で向き合うことによって,わたしの寂寥感は徐々に落ち着き,納まっていく。
今回は,玄侑宗久さんの書いた『四季の公案』に手が伸びた。もともとは,雑誌にインタヴューとして連載されていたもので,それに手を加えて,単行本としたものである。だから,きわめて読みやすい。口語文をそのまま活かして,公案という難題を,わたしたちの身近な話題をとおして解きあかしてくれる。その文章がまた美しい。
正方形に近い形の,ちょっと変わった小型の本である。ところどころに,見開き全ぺージをつかって,四季折々の美しい自然を撮ったカラー写真が折り込まれている。これが,また,とてもいい。しばし,みとれてしまう。つまり,玄侑さんの地の文章と共振・共鳴しているのである。
四季ごとに章を分けて,いくつかのテーマを立てて,話を展開している。たとえば,「春」の章には,松,雪,節分,涅槃会,梅華,桃が,「夏」の章には,薫風,喫茶去,竹,青山,行雲流水,入道雲,施餓鬼が,「秋」の章には,お彼岸,月,西風,紅葉が,そして,「冬」の章には,成道会,煤払い,餅つき,除夜の鐘,という具合である。
今回は,なぜか,「夏」の章の行雲流水のテーマに眼がいき,わたしの気持ちは落ち着きを取り戻す。そこの書き出しはつぎのようである。
「諸行は無常なり,とお釈迦さまはとらえました。では,どう生きればいいのか,と言えば,『雲や水のごとくに』です。つまり,『行雲流水』は生き方の提案なんです。
修行僧を雲水といいますが,これは空を絶えず動いていく雲と,流れゆく水のように滞らないということです。」
というところから説きはじめ,「滞らない」ことの重要性を諄々と説いていく。
「お釈迦さまは,定住することなく行脚をし続けました。定住するとは,何かを所有することであり,『所有する』ということは,守らねばならないものができるということです。守らなければならないものを捨てて出家したのに,再び守らなければならないものができることにお釈迦さまは抵抗がありました。」
そうして,読んでいくと,「行雲流水」とは,一言で言えば「自由」です,と玄侑さんは断言する。そして,つぎのように説く。ここは,わたしにとっては新しい発見だったので,少し長いけれども,引用しておく。
「仏教語としての自由という言葉は,禅が使いだしたものです。六祖慧能(えのう)が『自由自在』という言葉を初めて使うんです。それまでは,『自由』という語は『勝手気まま』という意味でしかありませんでした。
六祖が言う自由自在とは,自在に変化できるということなんです。しかし,『私にはそんなことはできない』などと『私』のイメージを固定してしまうと,自在な変化ができなくなるわけです。
『私』というものは,相手とのかかわりのなかで,その時その場だけに現成するものです。あらゆる状況と相手に応じる力が『自由』であり,仏教では最も大切なことなのです。」
「行雲流水」は,太極拳の稽古でも,よく言われることばのひとつである。そして,なにものにもとらわれない「自由」をわがものとせよ,と。しかし,「わがもの」とした瞬間に,その「自由」は逃げて行ってしまう。ここが,また,むつかしいところ。
と,こんなところに思い至ったところで,わたしの寂寥感はどこかに消えている。それだけで,十分。ありがたい本だ。こんな話題が満載の本は,わたしにとっては,お気に入りの『般若心経』解説本に,もう一冊が仲間入りして,しばらくは楽しめそうだ。
のみならず,これからは仏教にかぎらず,もう一度,宗教とはなにか,信仰をもつとはどういうことなのか,ということを多くの人たちが考える時代に入っていくのではないか,と思いはじめる。とりわけ,「3・11」以後は。これから大きな波が寄せてくるような予感がするのだが・・・・・?
以上,玄侑宗久さんの『四季の公案』の紹介まで。
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