2011年11月5日土曜日

福井・永平寺で「脱原発シンポ」を開催。

「3・11」以後,多くの僧侶たちが,とくに若い僧侶たちが,ひとりの人間として災害復興や脱原発に立ち上がって活動していることは,すでに多くのメディアが紹介しているとおりである。それらの報道に触れるにつけ,わたしは密かに日本の仏教は捨てたものではない,と感じていた。

こういうときにこそ,仏教は宗派を超えて,住民の側に立つ,つまりは檀徒衆の側に立ち,そして寄り添うようにして,僧侶たちが支援活動を展開する・・・,これは長年の仏教の伝統でもあるのだ。仏教は,基本的には,つねに弱者の側に立つ。弱者救済がその根底にある。空海にしても,日蓮や親鸞や道元にしても,都(みやこ)とは距離をおき,仏教のあるべき姿を追究した。そして,いかにして貧窮者たちを救済するか,ということに意を注いだ。

そのことが,たまたま,今回の「3・11」を契機にして復活したのだろう,とわたしは思う。まだまだ,伝統の精神は生きていた,と言っていいだろう。あるいは,平和惚けしていた僧侶たちが,こういう危機をとおして,ようやく目覚めたというべきか。

しかし,個々の僧侶たちの頑張りにくらべると,仏教の各宗派団体の足どりは重い。どの団体も旗幟を鮮明にすることを避けているかにみえる。

しかし,福井の永平寺が立ち上がった。道元禅師を開祖とする曹洞宗の総本山である。

東京新聞(11月3日・朝刊)の「こちら特報部」が大きく取り上げた。
シンポジウムのテーマは「いのちを慈しむ~原発を選ばないという生き方~」。
福島県飯館村の酪農家長谷川健一さん(58)と,福井県小浜市で40年以上も反原発運動を展開してきた真言宗・明通寺の住職中島哲演さん(69)のお二人が登壇して,それぞれの立場からの主張を展開し,参加した人びとのこころに深く響いた,と報じている。

新聞に躍る見出しは以下のとおり。
福井・永平寺でシンポジウム
仏教界にも広がる「脱」の動き
原発の罪を説く
今の日本「滅公奉私」
会場はピリピリ
生活 見直すとき
僧侶有志が開催,意義大きい

福井県といえば,いわずと知れた原発の国内一の立地県である。おまけに「ふげん」「もんじゅ」までここにあるのは偶然ではないのかも知れない。美浜原発の3基,大飯原発の4基,高浜原発の4基,敦賀原発の2基,計13基がひしめいている。

こうした動きと連動して,全日本仏教会(伝統仏教の各宗派や各都道府県の仏教会などでつくる)は,12月1日に理事会を開催する予定で,その折に,福島原発事故に関する宣言・決議文を採択する方向で調整している,という。いまこそ,日本の仏教界は立ち上がるべきときだ。そして,経済より,なによりも「いのち」の大切さを説くべきときだ。

わたしも曹洞宗の縁故のはしくれにいる人間として,大いに支援していきたいと思っている。

臨済宗では,玄侑宗久さんが,福島県三春町で頑張っていらっしゃることは,みなさんもよくご存じのとおりである。蛇足ながら,玄侑宗久さんのブログがとてもいい。ぜひ,ご覧いただきたい。玄侑さんの,こころの底からの訴えに耳を傾けていただきたい。

いまこそ,日本の行方を決する大事なときだ。原発推進なのか,脱原発なのか,二者択一しかない。ここできちんと国民の意志を表明し,しっかりと舵取りをしておかないと,日本に未来はない。

そういう大転換期に,わたしたちは,いま,立たされている。原発もTPPも,みんな同じ路線だ。国際社会から見放されようと,なんであろうと,国民として納得のいく「生き方」を見据えるときだ。チベットの辺境に住む「ブータン」の人びとの例もある。この国の人びとのGNH(幸せを考えること,幸せ指数)は97%で,世界一だという。食べ物も着るものも不足だらけ。でも,みんな「幸せ」だと感じている,というのだ。貧しいが故に,みんなが助け合って,こころの通い合う幸せを共有している,というのだ。

「ものが豊かになると,こころは貧しくなる」と,かつて,大塚久雄(マックス・ウェーバー研究者,経済史家)は説いた。マックス・ウェーバーといえば,Fachmensch ohne Geist,  Genussmensch ohne
Seele..  という名言が思い出される。20世紀の初頭のヨーロッパの現状を見据えて,このままの文明化が進展していくと,やがて「知的精神のない専門家」と「情緒を欠いた享楽人」ばかりになってしまう,と喝破したのだ。

いま,まさに,わたしたちは,その予言どおりのところに立たされている。
「知的精神のない専門家」とは,だれのことを指しているのか,もはや言うまい。
「情緒を欠いた享楽人」とは,だれのことなのか,これも言うまい。

わたしたちは,みずからの胸に手を当てて,自分自身のこれからの「生き方」をしっかりと見据えていかなくてはならない。みずからへの自戒の念を籠めて。

その意味で,こんごの仏教界の動向に注目したい。

1 件のコメント:

竹村匡弥 さんのコメント...

kappacoolazyだにぉ。
しぇんしぇい、お久しぶりだによぉ。
ずっ〜と塞ぎ気味、、、妙な感覚だにぉ。
これを鬱のような状態と呼ぶんだにかぁ。
kappa族には鬱という名前(モノ)はないんだに。。。

自分中心の半径30cm以内のことしか考えられなくなっているんだにぉ
時間にすると15秒前後だにぉ
しかもそれは自分(完全に支配できているような)の空間、時間で、
そこにいるととりあえずは「安心・感」に逃げ込める。
当然、逃げているという自覚はないんだにぉ・・・きっと。。。