2011年11月4日金曜日

「国民投票」を否定する資格がだれにあるのか。民主主義とはなにか。

一国の意志決定のために「国民投票」をするという。それをやってはならないと「国際社会」(としておこう)がいう。だれが,どのような資格でそんなことが言えるのだろうか。いったい,「国際社会」とはなにか。EUは,ある特定の国家の意志をも決定する権利をもっているというのだろうか。G20とは,いったい,なんなのか。それらは,「国民投票」をも否定する資格があるとでもいうのだろうか。

民主主義とはなにか。

このところ,ずっと,考えつづけていたことだ。国民の意志決定をするための,もっとも直接的で,わかりやすい方法は「国民投票」以外にはない,と信じてきた。ここが民主主義の根幹をなす,と信じてきた。が,どうも,そうではないらしい。

古代ギリシアでは,ポリスごとに直接民主制をしいて,住民の意志決定をしてきた,と学んだ。そして,こんにちの民主主義のモデルとされた,とも。そのギリシアで,国民投票をしようとしたら,それをフランス・ドイツ・イギリスの首脳部にアメリカまでが参入して,「やってはならない」とプレッシャーをかけた,という。これはいったいなんなのか。ギリシアの国民の意志を聞くこともなく,ギリシアの財政危機救済策を「国際社会」が,自分たちの「都合」で決定しようとしている。そして,その提案に「文句をいうな」というのだ。黙ってついて来い,と。

これは,いったい,どういうことなのか。わたしには解せない。

フランスもイギリスもドイツも,そして,アメリカも「民主主義」を標榜する国家ではなかったか。いつから宗旨替えをしたというのか。これは,新たなる「帝国」の出現だ。アントニオ・ネグリの提起した「帝国」が,いよいよ,その姿をみせはじめたようだ。となると,こんどは「マルチチュード」の出番だ。

それと同じことが,いま,日本の国内で起きている。構図はまったく同じだ。九電の玄海再稼働も,地域住民の意志はまったく無視されたまま,政府もそれを認めてしまった。とんでもないことが,国民の目の前で,平気で行われている。それでも選挙は勝てると信じているかのように・・・。

その前に,沖縄の基地移転問題も同じだ。沖縄県民は,こぞって「県外移転」を望み,それを体現する知事を県民の総意として選出した。にもかかわらず,政府は沖縄県民の意志を無視して,ひたすら,アメリカのご意向のままに行動を起こしている。

民主主義はどこに行ってしまったというのだろうか。

ああ,こういうことを書きはじめると,またまた,「うつ病」が再発してしまう。せっかく,治りはじめたばかりだというのに・・・・。だから,あとは,みなさんの想像力に委ねておきたい。でないと,身がもたない。とはいえ,気を取り直して・・・・。

日本も,いまこそ,「国民投票」をやってほしい。もちろん,「脱原発」か,「原発推進」か,という大問題を問うて。その結果にもとづいて,それでも「原発推進」というのであれば,わたしはもうなにも言わない。山にでも籠もって,ひたすら,坐禅でもして暮らすことにする。しかし,もし,「脱原発」という意志が確認されるのなら,わたしも老骨に鞭打って「パッション」をみなぎらせて,世のため人のためにできることをしたいと思う。

世論調査によれば,国民の8割以上が「脱原発」だという。にもかかわらず,政府は,どこ吹く風とばかりに,「原発推進」の路線を変えようとはしない。それどころか,外国に「原発」を売ろうとさえしている。もし,売りつけた「原発」が故障したら,そして,暴発でも起こしたら,その費用はどうするのか。そして,使用済み核燃料の処理をどうするのか。そんなことも考えないで,いま,目の前で,金が動いて,いくら,儲かったという「数字」があればいいらしい。

ギリシアの財政危機救済策も同じではないのか。EUの「経済」安定が最優先されて,そのことのためには「国民投票」は時間の無駄だ,という。そして,もし,「国民投票」をやるのであれば,ギリシアをEUから除名すると言って脅す。脅されなくても,ギリシア国民が自主的に「撤退」の意志決定をするかもしれないのに。その選択肢すら否定してかかる「国際社会」とはなにか。

民主主義はもはや幻想でしかないのだろうか。

たとえば,投票行動そのものさえ,メディアにほぼ掌握されているのではないか,という。あるいは,政治・経済・官僚・学会・報道が「五位一体」となって,いまも,日本の政治は動いている。国民の意志を無視して。「原発安全神話」がどのようにして構築され,それを多くの日本人が鵜呑みにしてきた,というそのカラクリも露呈したというのに・・・・。まだ,懲りずに,その体質をそのまま引きずりながら,事後処理に当たろうとしている。

トランプ・ゲームに「総替え」という遊びのルールがある。現実の問題を処理するに当たって「総替え」は無理であるとしても,「半舷上陸」くらいはあってもいいのではないか,と思う。せめて,三分の一くらいは責任者を「入れ換えて」,事後処理にあたるべきではないのか。

そこには,いっさい手をつけようともしない。しかも,なんの「責任問題」も問おうともしないで・・・・。現体制のままで,唯々諾々として,事後処理にあたろうとしている。またまた,同じ穴の狢(むじな)ではないか。

いけない。脱線している。今日のブログの主題は「民主主義」だ。

こんにちの「国際世論」と称して世界を動かしているのは,1%の支配階層の人間たちだ。そして,日本の「国政」を動かしているのも,たった1%の「経済運命共同体」の人たちだ。政治家は,そのための「手足」にしかすぎない・・・・とわたしの眼には映る。

民主主義はどこに行ってしまったのか。

日本だけではなくて,世界全体が,「経済」最優先(それも,富裕階級保全のための)の論理に眼が眩み,「人間の命」のことはどこかにすっとんでしまったようだ。こうなったら,世も末だ。あとは,あちこちで「臨界」に達した地域から「核爆発」という「暴動」が起きるのみだ。そこまで行くしかないのだろうか,と思うと情けなくなってくる。

もっとも,古代ギリシアの直接民主制も,よくよく考えてみれば,奴隷制社会の上に成り立っていたもので,ほんの一握りの「自由市民」たちだけのものであったことも,ここで想起しておこう。スパルタの全盛期には,一人の自由市民のもとに「60人~100人」もの奴隷が抱えられていたという。とすれば,やはり,ほんの1~2%の人びとのための民主主義でしかなかった,という実像が浮かび上がってくる。

さてはて,「クォ・ヴァディス」(神よ,いずこへ)ではないが,「民主主義よ,いずこへ」と問わないではいられない。

しかも,報道のほとんどは,ギリシアの首相批判に終始している。それも,ある面,正当であるかもしれない。しかし,もっと大きな問題は,ギリシアの危機を利用した,まったく新たな「帝国支配」の徹底・浸透である。まるで,ナオミ・クラインが提起した『ショック・ドクトリン』を地でいくようなドラマが,「世界ショー」として,いま,目の前で繰り広げられている。

この「成り行き」からは眼が離せない。

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