2011年11月7日月曜日

TPPはアメリカン・スタンダードの環太平洋ヴァージョンの押しつけ以外のなにものでもない。

今日の新聞によると,TPP問題は,9日にも政府決定をするらしい。そして,これまでの野田どじょう君の言動からすれば,強行突破をはかるらしい。由々(忌忌)しき問題だ。

TPPの細部がわからないとか,大いなる誤解があるとか,もっと議論を深めるべきだとか,メディアも評論家もずいぶん無責任なことを言っている。そんなことは多少どちらでもいい。問題の核心は,アメリカン・スタンダードを環太平洋にまで拡大しよう,というただそれだけのことだ。アメリカン・スタンダードとは,フリードマンのいう自由化だ。要するに,関税を撤廃して市場原理に委ねようという新自由主義の考え方を受け入れるかどうか,というその一点にある。小泉君のやった郵政民営化がその見本だ。

アメリカの政府高官が,テレビをとおして,まことに堂々と「アメリカン・スタンダードを広めることだ」と発言しているとおりである。こまかな議論は要らない。アメリカが,アフガニスタンでやったことも,イラクでやったことも,みんな「アメリカン・スタンダード」の押し売りだった。が,いずれも失敗して,その後始末に困り果てているのが現状ではないか。アメリカの不景気はここに端を発している,という評論家もいる。

新聞報道によれば,あるTPP反対集会で,壇上に立った宮台真司さんが「はじめはTPPに賛成であったが,反対にまわることにした」と発言したという。呆気にとられてものも言えない,とはこのことか。いまでは高名な社会学者としての地位を確立した,この人が,TPPに賛成であった,とは。かつては,援助交際の研究者としてデビューし,その道の第一人者として認知された人だ。でも,よく考えてみれば,援助交際のフィールド・ワークとは,いったい,どういうことなのだろうかと勘繰りたくもなる。参与観察なのか,参加観察なのか,と毒づいた人もいた。

何回も書くが,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義の正体を暴く)』(岩波書店)の「序章」を読むだけで,フリードマンという「シカゴ学派」の経済学者がなにを仕掛けてきたのか,ということが手にとるようにわかる。

要するに,「経済」の活性化を隠れ蓑にして,アメリカン・スタンダードを世界に浸透させようという「企み」が,長年にわたって,意図的・計画的に進められてきた,とナオミ・クラインは警鐘を鳴らす。そして,それを実証するための「事実」を,じつに丹念に腑分けしながら,わたしたちの前に提示してみせてくれている。

これからの日本の行く末を見届けるためにも,この本は必読である。

なぜ,わたしのような者が,TPPにこだわるのか。
つまり,アメリカン・スタンダードによる「世界支配」にこだわるのか。

それには,深い深いわけがある。詳しくは,いつか,連載のようにして書いてみるつもりであるが,簡単に言っておけば,以下のとおりである。

意外に思われる人も多いかと思うが,じつは,オリンピック・ムーブメントは,ヨーロッピアン・スタンダードによる「世界支配」という野望をともなった「平和」運動だったのだ。その背景には,もちろん,一神教による「世界支配」が潜んでいる。だから,世界が一つの信仰のもとに結束すれば,「平和」になる,というのである。

スポーツというオブラートにつつんで,ルールもマナーも,そして,組織も制度も,みんなセットにして「近代ヨーロッパ」のスタンダードを織り込んで,世界に輸出すること。この方法論は,いみじくも「経済」を隠れ蓑にして,しかも,「自由」と「民主主義」をセットにしてアメリカン・スタンダードを世界に浸透させようというフリードマンの戦略とまったく同じだ。

しかし,「自由」も「民主主義」もみんな「強者」のためのものであって,「弱者」の救済にはなんの役にも立たないということも,ここにきて露呈してしまった。このことは,オリンピックを筆頭にワールドカップもふくめた,いわゆる近代スポーツ競技にも,そっくりそのまま当てはまる。つまり,近代スポーツ競技は,すべて「強者」の論理の上に成り立っているのであって,「弱者」を切り捨てるシステムでしかない。しかも,その「弱者」切り捨てを合理化するための文化装置としても,きわめて大きな役割をはたしてきたし,いまも,立派に機能しているのである。「自由競争の原理」,「優勝劣敗主義」,「勝利至上主義」,「平等主義」(みせかけの),等々。これらの考え方はみんな「資本主義経済」のスポーツ・ヴァージョンにすぎない。

近代スポーツがいかに奇形化してしまったか(ドーピング問題もふくめて),という点については『近代スポーツのミッションは終わったか』(今福龍太,西谷修の両氏との共著,平凡社)を参照していただきたい。近代スポーツが,いまや,とんでもない地平に立たされているということも,この本のなかで,かなり深いところまで論じてある。

近代スポーツは,ことわるまでもなく「弱肉強食」そのものだ。TPPも,そっくりそのまま「弱肉強食」なのだ。両方とも,スポーツというオブラートにつつまれたり,経済という隠れ蓑のもとに身を寄せているだけのことだ。

日本という国家が食べられてしまってもいい,それだけの覚悟がおありなら,どうぞ,「どじょう」君,身を挺してわれらを「生贄」に捧げてみればいい。生贄とは供犠であり,供犠は一種の「贈与」だ。贈与は,英語では gift だ。この gift には「毒」という意味もあることをお忘れなく。


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