わたしの大学教員生活のはじまりは愛知教育大学だった。年齢は,すでに,36歳。長年,就職ができなくて苦労したことを思い出す。そのときの最初のゼミ生たちの集まりが毎年1回,休むことなく開催されてきた。みんな仲良しで,ともに情報交換などをしているらしい。
その集まりが,今日(20日),豊田市で持たれるので,これからでかけるところ。毎年,楽しみにしている会である。かられももう立派な校長になったり,教頭になったり,平教員を希望して教育一筋を貫いている見上げた人物もいる。それぞれが,それぞれの夢を追っている。だから,会話が生き生きとしている。なかには女性校長として頑張っている生きのいいのもいる。
わたしが愛知教育大学に在籍していたのは,恥ずかしながら,たった2年だった。だから,3年4年とまる2年間,わたしのゼミ生として苦楽を共にしたのは,この学年だけなのである。赴任した最初の年は,4年生の数人がわたしのゼミ生となった。この回生は,なにをどう間違えたのか,いささか桁のはずれた元気のいい学生ばかりだった。ひょっとしたら,手に余って,わたしのところに押しつけられたのかもしれない。
わたしも若かったから,キャンパス内にあった教職員宿舎に学生たちを集め,徹夜で酒を飲みながら激論を闘わせたことを記憶している。しかし,この回生のその後のことは,わたしのところには届いてこない。やはり,桁が違っていたのかもしれない。1年間のゼミ生では,とても,わたしの考えていることを伝えることはむつかしかったということなのだろう。
それに引き換え,3年4年とみっちり時間をかけたゼミ生たちは,曲がりなりにもわたしの考えていることを理解してくれ,それなりに努力をしてくれた。というよりも,学生としての質がよかった(こんなことを言うとほかの回生たちに叱られそうだが・・・)ように思う。あるいは,わたしとの波長が合ったというべきか。とても気持ちよくゼミが展開できたことを記憶している。
気の毒だったのは,3年生のときだけわたしのゼミで,わたしの転勤とともに投げ出されてしまった回生だ。この人たちには,いまも,頭が上がらない。申し訳ないという気持ちがいつまでも消えない。でも,とても温厚でやさしい丸地先生が引き受けてくださったので,わたしとしては安心だった。この回生の人たちも,その後,どのような生き方をしているのか,わたしのところには届かない。当然といえば,当然の話。
その意味では,今日,集まる回生は奇跡的な出会いだった,ということもできる。たった2年間,在籍した大学の3年4年のゼミ生だったということは,偶然にすぎないのだが,それだけではなかったのかもしれない。しかも,わたしが初めて大学に職をえたときの3年生だ。わたしは嬉しくて嬉しくて,これでようやく月給がもらえる,と飛び上がったものだ。それまでは,長い長いアルバイト生活だった。しかも,結婚して子どもまでいた。生活は苦しかった。
ようやく長いトンネルを抜け出て,さあ,これからだ,と気合も入っていた。しかも,わたしの故郷の大学だ。そして,36歳。寅年。元気一杯。希望に胸膨らませて,意気揚々と赴任した。しかも,キャンパスは新しくできたばかりの別天地のような風景が広がっていた。本部棟からブールやグラウンドにかけてなだらかな傾斜地にきれいな芝が植え込んであり,ひろびろとした空間と,抜けるような青空(その当時の東京は自動車の排気ガスで大変だった)に感動したものだ。
日曜・休日には,キャンパス内にある教職員宿舎から歩いて散歩にでた。歩きはじめたばかりの娘をつれて。プールの前の芝の傾斜地が娘のお気に入りの場所だった。ときには,おむすびを持って行って,そこでお昼をしたこともある。アルバイトから解放され,自分の自由になる時間もたっぷりあって,至福のときを過ごしていた。両親たちも喜んで,遊びにきてくれた。とくに,父は満足そうだった。父とは,このキャンパスの周辺にあるカキツバタの原生地や池のまわりを散歩した。とてもいい思い出となっている。
こんなに気に入った大学だったのに,ご縁がなかったのか,たった2年でお暇することになった。大阪大学からの誘惑に負けた。とても条件のいい提示があった。すぐにでも在外研究員として,ドイツに行かせる,というような(他にもあったが)話に乗せられてしまった。着任してみたら,それは嘘だった。直ちに,上司と衝突した。許せなかった。だから,大阪大学は,わたしの意志で,2年で去ることにした。
まあ,そんなことを思い出している。さあ,これから支度をして・・・・。
ことしは,どんな顔ぶれが集まることやら・・・・。楽しみだ。
ということで,行って参ります。
その集まりが,今日(20日),豊田市で持たれるので,これからでかけるところ。毎年,楽しみにしている会である。かられももう立派な校長になったり,教頭になったり,平教員を希望して教育一筋を貫いている見上げた人物もいる。それぞれが,それぞれの夢を追っている。だから,会話が生き生きとしている。なかには女性校長として頑張っている生きのいいのもいる。
わたしが愛知教育大学に在籍していたのは,恥ずかしながら,たった2年だった。だから,3年4年とまる2年間,わたしのゼミ生として苦楽を共にしたのは,この学年だけなのである。赴任した最初の年は,4年生の数人がわたしのゼミ生となった。この回生は,なにをどう間違えたのか,いささか桁のはずれた元気のいい学生ばかりだった。ひょっとしたら,手に余って,わたしのところに押しつけられたのかもしれない。
わたしも若かったから,キャンパス内にあった教職員宿舎に学生たちを集め,徹夜で酒を飲みながら激論を闘わせたことを記憶している。しかし,この回生のその後のことは,わたしのところには届いてこない。やはり,桁が違っていたのかもしれない。1年間のゼミ生では,とても,わたしの考えていることを伝えることはむつかしかったということなのだろう。
それに引き換え,3年4年とみっちり時間をかけたゼミ生たちは,曲がりなりにもわたしの考えていることを理解してくれ,それなりに努力をしてくれた。というよりも,学生としての質がよかった(こんなことを言うとほかの回生たちに叱られそうだが・・・)ように思う。あるいは,わたしとの波長が合ったというべきか。とても気持ちよくゼミが展開できたことを記憶している。
気の毒だったのは,3年生のときだけわたしのゼミで,わたしの転勤とともに投げ出されてしまった回生だ。この人たちには,いまも,頭が上がらない。申し訳ないという気持ちがいつまでも消えない。でも,とても温厚でやさしい丸地先生が引き受けてくださったので,わたしとしては安心だった。この回生の人たちも,その後,どのような生き方をしているのか,わたしのところには届かない。当然といえば,当然の話。
その意味では,今日,集まる回生は奇跡的な出会いだった,ということもできる。たった2年間,在籍した大学の3年4年のゼミ生だったということは,偶然にすぎないのだが,それだけではなかったのかもしれない。しかも,わたしが初めて大学に職をえたときの3年生だ。わたしは嬉しくて嬉しくて,これでようやく月給がもらえる,と飛び上がったものだ。それまでは,長い長いアルバイト生活だった。しかも,結婚して子どもまでいた。生活は苦しかった。
ようやく長いトンネルを抜け出て,さあ,これからだ,と気合も入っていた。しかも,わたしの故郷の大学だ。そして,36歳。寅年。元気一杯。希望に胸膨らませて,意気揚々と赴任した。しかも,キャンパスは新しくできたばかりの別天地のような風景が広がっていた。本部棟からブールやグラウンドにかけてなだらかな傾斜地にきれいな芝が植え込んであり,ひろびろとした空間と,抜けるような青空(その当時の東京は自動車の排気ガスで大変だった)に感動したものだ。
日曜・休日には,キャンパス内にある教職員宿舎から歩いて散歩にでた。歩きはじめたばかりの娘をつれて。プールの前の芝の傾斜地が娘のお気に入りの場所だった。ときには,おむすびを持って行って,そこでお昼をしたこともある。アルバイトから解放され,自分の自由になる時間もたっぷりあって,至福のときを過ごしていた。両親たちも喜んで,遊びにきてくれた。とくに,父は満足そうだった。父とは,このキャンパスの周辺にあるカキツバタの原生地や池のまわりを散歩した。とてもいい思い出となっている。
こんなに気に入った大学だったのに,ご縁がなかったのか,たった2年でお暇することになった。大阪大学からの誘惑に負けた。とても条件のいい提示があった。すぐにでも在外研究員として,ドイツに行かせる,というような(他にもあったが)話に乗せられてしまった。着任してみたら,それは嘘だった。直ちに,上司と衝突した。許せなかった。だから,大阪大学は,わたしの意志で,2年で去ることにした。
まあ,そんなことを思い出している。さあ,これから支度をして・・・・。
ことしは,どんな顔ぶれが集まることやら・・・・。楽しみだ。
ということで,行って参ります。
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