20日のブログに書いた,愛知教育大学元ゼミ生の集まりの名前は「48会」。昭和48年に入学したことからとった名前(と記憶している)。ということは,ことし56~7歳になるはず。いつのまにやら立派な紳士・淑女になっている。大学時代のことを思うと隔世の感がある。ことしはまた校長先生がひとり増えていた。
ことしの幹事はA君。豊田市で小学校の教員をしながら,サッカー・クラブの指導にも力をそそぐ。同級生たちが,つぎつぎに校長・教頭になっていくのを横目でみながら,どこ吹く風とばかりに,ひたすら子どもたちとのじかの「触れ合い」を求めている根っからの教育者。そして,熱血漢。本人は博物館おたくと自称する。ちょっと意外な取り合わせなのだが,博物館の前をとおりかかれば,よほどのことがないかぎり躊躇することなく入るという。
そんなA君が幹事なので,ことしの集まりのプログラムの中に,地元(豊田市)の最大のトヨタ博物館見学が組み込まれるのは当然のなりゆき。以前は「挙母市」と呼ばれていた都市の名前を「豊田市」に変えてしまうほどの「トヨタ」一色の町。この町にニッサンの車で乗り入れるとにらまれると言われるほど。わたしも愛知教育大学に勤務するようになってから,ニッサンからトヨタに変えた。それだけで,お前は偉い,と褒められた。そんな土地柄でもある。住民のほとんどがトヨタつながり。A君が監督を務めるサッカー・クラブもトヨタつながり。
さて,トヨタ博物館と聞けば,ああ,自社の製造してきた車を並べて,社の宣伝を兼ねて,社史を誇らかに展示しているものと思い込むのがふつうだろう。わたしもそう思い込んで入館した。ところが,である。自社製品は,最初に製造したという記念すべき「トヨダAA型乗用車」が入り口正面に飾ってあるだけで,あとは,世界の名品といわれた自動車を並べたみごとな「世界自動車博物館」になっている。しかも,それらの展示車はすべて動かすことができる,という。
トヨタを含めた日本の自動車の歩みは,別のフロアーの一角に展示してあって,ここでもトヨタの自己主張はほとんどない。みんな,平等に,年度ごとの評判のよかった新車が並んでいる。わたしが愛知教育大学に勤務していたころに乗り替えた「トヨタ・カリーナ」も展示してあって,急に親近感を覚える。そして,「ああ,いい博物館だ」とA君に声をかける。すると,A君が嬉しそうに「そう言ってくれると嬉しい」と正直に応えてくれる。
自動車マニアにとっては,丸一日いても時間が足りない,そういう博物館の展示になっている。なぜなら,自動車の展示と同時に,それぞれの自動車の時代背景を「生活史」という側面から,かなり詳しく解説したパネルが,あちこちにセットしてある。これを読みながら,わたしなどは,歩く人から車に乗る人へと,大変貌する日本人の姿を思い浮かべていた。むかしの人は,どこに行くにもみんな歩いていた。そこに馬車が走り,バスが走りして,歩行文化が少しずつ痩せていく。そして,最後のとどめを刺したのが「自家用車」の普及。これが,たった50年前のことだ。この半世紀の間に,日本人のほとんどの人たちは「歩く」ことを忘れ,どこに行くにも自動車。コンビニに行くのも自動車。銭湯に行くのも自動車。歩くことを忘れてしまった日本人のからだは,こぞって「肥満」。すなわち,文明病。あわててスポーツ・ジムに飛び込む。とき,すでに,遅し。しかも,なんというもったいないことをしていることか。ぜいたくと無駄の見本。
この話は,また,別の機会に。
ここでは,社名が「トヨダ」から「トヨタ」に変更されたときの話を書いておきたい。なぜなら,わたしは,むかしから「トヨタ」と呼ばれていたと信じて疑わなかったからだ。しかし,そうではなかった,ということを今回の博物館見学で知った。これは,わたしにとっては驚くべき「発見」だった。というよりも,虚を突かれた思いだ。
豊田佐吉が自動織機を発明したのが,こんにちのトヨタのオリジンだということは,中学のときの教科書(あるいは,副読本)で学んだ。この豊田佐吉の読みは「とよださきち」だったので,会社の名前は漢字で「豊田」と表記され,読みも「とよだ」だった。これは当たり前のことだ。
「トヨダAA型乗用車」が,初めて世に公表されたのは1936年だという。この年の9月14日から16日にかけて東京丸の内の東京府商工奨励館で開催された「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」の会場が,お披露目の場となった。このときは,まだ「トヨダ」と濁点がついたままだった。しかも,車の鼻先にあたるところのロゴをよくみると「豊田」と漢字で書いてある。まあ,これも,ちょっと意外だったが,よくよく考えてみれば,それが自然。なにも不思議ではない。
ところが,この展覧会の直後に,トヨダマーク懸賞募集が行われ,その審査の結果,トヨタマークが決定し,10月から製品名を「トヨタ」と呼ぶことにした,というのである。わずか,一カ月の差で,1号車は「トヨダ」(しかも,漢字で「豊田」)となり,そのご,しばらくは「トヨダ」のロゴが用いられたという。もし,このトヨダマークの懸賞募集が,もう少し早く行われていれば,最初から「トヨタ」のロゴになっていた,というのである。
以上は,トヨタ博物館のミュージアム・ショップで購入した『ガイド・ブック』の説明。
しかし,会場に立って,いろいろと説明をしてくれる美しいガイドのお姉さんは,これとは別の面白い説明をしてくれた。それによると,「トヨタ」は画数が「八画」となり,末広がりで縁起がいい。「トヨダ」では「十画」になり,しかも,×印になってしまうので,それを避けた,と。じゃあ,キリスト教文化圏だったら「トヨダ」の方が縁起がいいということになるね,とわたし。ガイドのお姉さんは困った顔をしてしまった。
それと,もうひとつの説がある,と教えてくれた。その説によると,外国人が「トヨダ」と発音すると間延びしてしまって,アクセントの置き所がわからなくなってしまう,と。つまり,「トーヨーダー」という具合に棒読みになってしまう。「トヨタ」なら,日本語と同じように発音することができる,というので,こちらがご採用になった,という。
そのあと,家に帰ってから,わたしが考えた作り話は,以下のとおり。
豊田佐吉の自動織機から,離脱して,自動車に乗り換えようとしたのは豊田喜一郎。かれは,自動織機は「トヨダ」とし,自動車は「トヨタ」とする,その差異化を狙ったのではないか。先代の功績を超えて,自己の存在を明確にするためには,差異が必要だ。そのためには,新生「トヨタ」がもっともいい,とアイディア・マンの喜一郎は考えたのだ。
というような具合で,「トヨダ」が「トヨタ」に変更した,ほんとうの理由はどこにも書いてない。書いてあることは,トヨダマーク懸賞募集の審査会が行われ,トヨタマークが決定した,とあるだけだ。なぜ,「トヨタ」にしたという議論の経緯は明らかにされてはいない。わかっていることは,懸賞募集に応募しただれかが「トヨタ」を提案し,それが採用された,というだけのこと。
すべては「藪の中」。意外に「画数」説が当たり・・・かも。
ここでは,1936年10月に,「トヨタ」というロゴが決定された,という事実だけを確認しておこう。そして,いつから,「豊田」という漢字表記から「トヨタ」というカタカナ表記に変わったのかは,ガイド・ブックをみるかぎりではわからない。
たぶん,トヨタの「社史」を調べれば,そのあたりのことはわかってくるのかもしれない。だれか,調べてみてくれませんか。
ことしの幹事はA君。豊田市で小学校の教員をしながら,サッカー・クラブの指導にも力をそそぐ。同級生たちが,つぎつぎに校長・教頭になっていくのを横目でみながら,どこ吹く風とばかりに,ひたすら子どもたちとのじかの「触れ合い」を求めている根っからの教育者。そして,熱血漢。本人は博物館おたくと自称する。ちょっと意外な取り合わせなのだが,博物館の前をとおりかかれば,よほどのことがないかぎり躊躇することなく入るという。
そんなA君が幹事なので,ことしの集まりのプログラムの中に,地元(豊田市)の最大のトヨタ博物館見学が組み込まれるのは当然のなりゆき。以前は「挙母市」と呼ばれていた都市の名前を「豊田市」に変えてしまうほどの「トヨタ」一色の町。この町にニッサンの車で乗り入れるとにらまれると言われるほど。わたしも愛知教育大学に勤務するようになってから,ニッサンからトヨタに変えた。それだけで,お前は偉い,と褒められた。そんな土地柄でもある。住民のほとんどがトヨタつながり。A君が監督を務めるサッカー・クラブもトヨタつながり。
さて,トヨタ博物館と聞けば,ああ,自社の製造してきた車を並べて,社の宣伝を兼ねて,社史を誇らかに展示しているものと思い込むのがふつうだろう。わたしもそう思い込んで入館した。ところが,である。自社製品は,最初に製造したという記念すべき「トヨダAA型乗用車」が入り口正面に飾ってあるだけで,あとは,世界の名品といわれた自動車を並べたみごとな「世界自動車博物館」になっている。しかも,それらの展示車はすべて動かすことができる,という。
トヨタを含めた日本の自動車の歩みは,別のフロアーの一角に展示してあって,ここでもトヨタの自己主張はほとんどない。みんな,平等に,年度ごとの評判のよかった新車が並んでいる。わたしが愛知教育大学に勤務していたころに乗り替えた「トヨタ・カリーナ」も展示してあって,急に親近感を覚える。そして,「ああ,いい博物館だ」とA君に声をかける。すると,A君が嬉しそうに「そう言ってくれると嬉しい」と正直に応えてくれる。
自動車マニアにとっては,丸一日いても時間が足りない,そういう博物館の展示になっている。なぜなら,自動車の展示と同時に,それぞれの自動車の時代背景を「生活史」という側面から,かなり詳しく解説したパネルが,あちこちにセットしてある。これを読みながら,わたしなどは,歩く人から車に乗る人へと,大変貌する日本人の姿を思い浮かべていた。むかしの人は,どこに行くにもみんな歩いていた。そこに馬車が走り,バスが走りして,歩行文化が少しずつ痩せていく。そして,最後のとどめを刺したのが「自家用車」の普及。これが,たった50年前のことだ。この半世紀の間に,日本人のほとんどの人たちは「歩く」ことを忘れ,どこに行くにも自動車。コンビニに行くのも自動車。銭湯に行くのも自動車。歩くことを忘れてしまった日本人のからだは,こぞって「肥満」。すなわち,文明病。あわててスポーツ・ジムに飛び込む。とき,すでに,遅し。しかも,なんというもったいないことをしていることか。ぜいたくと無駄の見本。
この話は,また,別の機会に。
ここでは,社名が「トヨダ」から「トヨタ」に変更されたときの話を書いておきたい。なぜなら,わたしは,むかしから「トヨタ」と呼ばれていたと信じて疑わなかったからだ。しかし,そうではなかった,ということを今回の博物館見学で知った。これは,わたしにとっては驚くべき「発見」だった。というよりも,虚を突かれた思いだ。
豊田佐吉が自動織機を発明したのが,こんにちのトヨタのオリジンだということは,中学のときの教科書(あるいは,副読本)で学んだ。この豊田佐吉の読みは「とよださきち」だったので,会社の名前は漢字で「豊田」と表記され,読みも「とよだ」だった。これは当たり前のことだ。
「トヨダAA型乗用車」が,初めて世に公表されたのは1936年だという。この年の9月14日から16日にかけて東京丸の内の東京府商工奨励館で開催された「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」の会場が,お披露目の場となった。このときは,まだ「トヨダ」と濁点がついたままだった。しかも,車の鼻先にあたるところのロゴをよくみると「豊田」と漢字で書いてある。まあ,これも,ちょっと意外だったが,よくよく考えてみれば,それが自然。なにも不思議ではない。
ところが,この展覧会の直後に,トヨダマーク懸賞募集が行われ,その審査の結果,トヨタマークが決定し,10月から製品名を「トヨタ」と呼ぶことにした,というのである。わずか,一カ月の差で,1号車は「トヨダ」(しかも,漢字で「豊田」)となり,そのご,しばらくは「トヨダ」のロゴが用いられたという。もし,このトヨダマークの懸賞募集が,もう少し早く行われていれば,最初から「トヨタ」のロゴになっていた,というのである。
以上は,トヨタ博物館のミュージアム・ショップで購入した『ガイド・ブック』の説明。
しかし,会場に立って,いろいろと説明をしてくれる美しいガイドのお姉さんは,これとは別の面白い説明をしてくれた。それによると,「トヨタ」は画数が「八画」となり,末広がりで縁起がいい。「トヨダ」では「十画」になり,しかも,×印になってしまうので,それを避けた,と。じゃあ,キリスト教文化圏だったら「トヨダ」の方が縁起がいいということになるね,とわたし。ガイドのお姉さんは困った顔をしてしまった。
それと,もうひとつの説がある,と教えてくれた。その説によると,外国人が「トヨダ」と発音すると間延びしてしまって,アクセントの置き所がわからなくなってしまう,と。つまり,「トーヨーダー」という具合に棒読みになってしまう。「トヨタ」なら,日本語と同じように発音することができる,というので,こちらがご採用になった,という。
そのあと,家に帰ってから,わたしが考えた作り話は,以下のとおり。
豊田佐吉の自動織機から,離脱して,自動車に乗り換えようとしたのは豊田喜一郎。かれは,自動織機は「トヨダ」とし,自動車は「トヨタ」とする,その差異化を狙ったのではないか。先代の功績を超えて,自己の存在を明確にするためには,差異が必要だ。そのためには,新生「トヨタ」がもっともいい,とアイディア・マンの喜一郎は考えたのだ。
というような具合で,「トヨダ」が「トヨタ」に変更した,ほんとうの理由はどこにも書いてない。書いてあることは,トヨダマーク懸賞募集の審査会が行われ,トヨタマークが決定した,とあるだけだ。なぜ,「トヨタ」にしたという議論の経緯は明らかにされてはいない。わかっていることは,懸賞募集に応募しただれかが「トヨタ」を提案し,それが採用された,というだけのこと。
すべては「藪の中」。意外に「画数」説が当たり・・・かも。
ここでは,1936年10月に,「トヨタ」というロゴが決定された,という事実だけを確認しておこう。そして,いつから,「豊田」という漢字表記から「トヨタ」というカタカナ表記に変わったのかは,ガイド・ブックをみるかぎりではわからない。
たぶん,トヨタの「社史」を調べれば,そのあたりのことはわかってくるのかもしれない。だれか,調べてみてくれませんか。
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