ほぼ2年ほど前に東洋書林から依頼を受けて,翻訳にとりかかっていた本の念校が,今日の朝一の宅急便でとどいた。わくわくしながら,気になっていたところのチェックに入る。みんなきれいに直っている。あとは,もう一度,通読して内容上の問題点をチェックするだけとなった。
念校がでたということは,あとは,刊行まで一直線。この念校を予定どおり14日にもどせば,あとは,12月15日ころに見本がでて,20日前後にはこの本が書店に並ぶ。書名は『ボクシングの文化史』(Boxing, A cultural history)。著者は,カシア・ボディ(Kasia Boddy.)。イギリスのロンドン大学で英文学の教鞭をとりながら,文筆家としても活躍している女性である。女性の書いたボクシング史としても異色である。随所に,女性のまなざしが感じられて,読んでいて面白い。
訳者は,松浪稔,月嶋紘之の両氏。わたしは監訳者。若いお二人の名訳をご期待ください。わたし自身は,これまでドイツ語の本は何冊か(共訳もふくめれば6冊)翻訳した経験があるが,英語の本は初めて。でも,初訳は英語に強いお二人が担当してくれたので,わたしの仕事は初訳を読みながらの調整。英文と突き合わせながら,日本語の表記のチェックと,訳語の統一,文体の調整,などが主な仕事。
英文に忠実に訳をつけると日本語がおかしくなる。英文からいかに離れて,独立した日本語にするか。これは意外に困難を伴う作業なのである。ドイツ語の場合は,原文が英文よりももっともっと長いので,これを日本語らしくするには,できるだけ短い文章に区切っていくしかない。今回もまた同様に,長文になってしまっている翻訳文を,二つの文章に区切って,日本語として読みやすくしたり,日本語として広く流通している訳語に置き換えたり,テクニカルな訳語の統一を計ったり,といろいろとある。
しかし,監訳者としてのもっとも重要な仕事は,これまでのスポーツ史研究の成果に照らし合わせて,訳文に大きな齟齬が生じていないかどうか,という点をチェックすることにある。たとえば,古代ギリシアのボクシング(本文では,月嶋氏の強い要望もあって,近代以前は「拳闘」という訳語で統一してある)の記述に関していえば,ホメーロスの英雄叙事詩『オデュッセイア』や『イリアス』をどのように読解するかによって,翻訳の文章(一つひとつの用語や文脈)は微妙に違ってくる。それどころか,古代ギリシアという時代背景を理解していないと,わけのわからない訳文になってしまうことが起きる。そういうところをチェックするのが,監訳者としてのわたしの役割。
本文だけで,570ページに達する分厚い本だ。翻訳をお二人に分担してもらったとはいえ,これは大変な負担だっただろうなぁ,としみじみ思う。お二人とも,それぞれにやるべき仕事を山ほど抱えている。そこに割り込んでの仕事の「押しつけ」である。さぞや迷惑をかけたことと思う。
初校ゲラがでてからの校正作業も大変だった。なにせ,分量が多い。そんなに簡単には終らない。来る日も来る日も,寸暇を惜しんで,連日,ゲラとにらめっこである。息の長い,根気のいる仕事である。集中力と持続力の勝負。
さて,内容の方であるが,これは文句なく面白いので,ぜひ,手にとってご覧いただきたい。古代ギリシアの拳闘から,こんにちのボクシングまで,文化史の視点から説き起こした力作である。
その手法について,若干,述べておくことにしよう。
まずは,いかにも英文学者らしく,イギリス近代の文学作品を徹底的に渉猟して,そこに描かれているボクシング・シーンをとりだす。そこに,同時代のボクシングに関する図像資料を持ち込む。その両者を突き合わせて,その時代のボクシングとはいかなるものだったのか,と思考と分析を重ねていく。
この手法は,わたしがかねてから提案しているように,「文学」と「絵画」を車の両輪にして,スポーツ文化を洗い直そうというものと同じである。この手法を用いることによって,これまでみえていなかった近代スポーツの,もう一つの側面が浮かび上がってくる。わたしがやりたくて,やれないままでいでいた手法を用いて,ボクシングでそれが行われたという次第だ。手の内がわかっているだけに,わたしには,きわめて刺激的な作品となっている。
とりわけ圧巻なのは,著者の専門の一つである「メディア論」を取り込んで,20世紀以後のボクシングの変化・変容の過程を,綿密に探求したくだりであろう。19世紀末に絵画にとって代わって写真が登場し,さらに,ラジオが普及し,映画の時代に入る。すると,ボクシングは爆発的な人気を呼び,一気にボクシングが人びとの身近な存在となっていく。その仕上げをしたのがテレビである。モハメド・アリやマイク・タイソンといった超スターは,こうした背景から生まれてくる。そのことを,きわめて納得のいく方法で明らかにしてくれる。
ボクシングとはなにか。それぞれの時代や社会を生きる人間にとって,ボクシングとはなにか。著者カシア・ボディの問題意識の底流には,いつも,この問いが流れているように思う。いったい,人間は,なぜ,拳で殴りあう身体技法を,わざわざスポーツとして温存させようとしたのであろうか。そして,なぜ,こんな荒っぽいスポーツにこれほどの人気があるのか。このことの詳細については,監訳者あとがきに書いておいたので,そちらを参照していただきたい。
でも,長い間,このブログを読んでくださっている読者にとっては想定内のことだ。結論だけを述べておこう。ボクシングとは,人間の内なる野生への「回帰願望」の表出である,と考えている。だから,ボクシングの文化史を考えるということは,とりもなおさず,人間とはなにか,という問いの答えを導き出す営みと同じである。
そんな眼で,本書を手にとっていただけることを,お二人の訳者ともども,こころから願っている。
珍しいボクシングに関する図版がいっぱいあって,ページをめくるだけでも楽しい本である。乞う,ご期待!
念校がでたということは,あとは,刊行まで一直線。この念校を予定どおり14日にもどせば,あとは,12月15日ころに見本がでて,20日前後にはこの本が書店に並ぶ。書名は『ボクシングの文化史』(Boxing, A cultural history)。著者は,カシア・ボディ(Kasia Boddy.)。イギリスのロンドン大学で英文学の教鞭をとりながら,文筆家としても活躍している女性である。女性の書いたボクシング史としても異色である。随所に,女性のまなざしが感じられて,読んでいて面白い。
訳者は,松浪稔,月嶋紘之の両氏。わたしは監訳者。若いお二人の名訳をご期待ください。わたし自身は,これまでドイツ語の本は何冊か(共訳もふくめれば6冊)翻訳した経験があるが,英語の本は初めて。でも,初訳は英語に強いお二人が担当してくれたので,わたしの仕事は初訳を読みながらの調整。英文と突き合わせながら,日本語の表記のチェックと,訳語の統一,文体の調整,などが主な仕事。
英文に忠実に訳をつけると日本語がおかしくなる。英文からいかに離れて,独立した日本語にするか。これは意外に困難を伴う作業なのである。ドイツ語の場合は,原文が英文よりももっともっと長いので,これを日本語らしくするには,できるだけ短い文章に区切っていくしかない。今回もまた同様に,長文になってしまっている翻訳文を,二つの文章に区切って,日本語として読みやすくしたり,日本語として広く流通している訳語に置き換えたり,テクニカルな訳語の統一を計ったり,といろいろとある。
しかし,監訳者としてのもっとも重要な仕事は,これまでのスポーツ史研究の成果に照らし合わせて,訳文に大きな齟齬が生じていないかどうか,という点をチェックすることにある。たとえば,古代ギリシアのボクシング(本文では,月嶋氏の強い要望もあって,近代以前は「拳闘」という訳語で統一してある)の記述に関していえば,ホメーロスの英雄叙事詩『オデュッセイア』や『イリアス』をどのように読解するかによって,翻訳の文章(一つひとつの用語や文脈)は微妙に違ってくる。それどころか,古代ギリシアという時代背景を理解していないと,わけのわからない訳文になってしまうことが起きる。そういうところをチェックするのが,監訳者としてのわたしの役割。
本文だけで,570ページに達する分厚い本だ。翻訳をお二人に分担してもらったとはいえ,これは大変な負担だっただろうなぁ,としみじみ思う。お二人とも,それぞれにやるべき仕事を山ほど抱えている。そこに割り込んでの仕事の「押しつけ」である。さぞや迷惑をかけたことと思う。
初校ゲラがでてからの校正作業も大変だった。なにせ,分量が多い。そんなに簡単には終らない。来る日も来る日も,寸暇を惜しんで,連日,ゲラとにらめっこである。息の長い,根気のいる仕事である。集中力と持続力の勝負。
さて,内容の方であるが,これは文句なく面白いので,ぜひ,手にとってご覧いただきたい。古代ギリシアの拳闘から,こんにちのボクシングまで,文化史の視点から説き起こした力作である。
その手法について,若干,述べておくことにしよう。
まずは,いかにも英文学者らしく,イギリス近代の文学作品を徹底的に渉猟して,そこに描かれているボクシング・シーンをとりだす。そこに,同時代のボクシングに関する図像資料を持ち込む。その両者を突き合わせて,その時代のボクシングとはいかなるものだったのか,と思考と分析を重ねていく。
この手法は,わたしがかねてから提案しているように,「文学」と「絵画」を車の両輪にして,スポーツ文化を洗い直そうというものと同じである。この手法を用いることによって,これまでみえていなかった近代スポーツの,もう一つの側面が浮かび上がってくる。わたしがやりたくて,やれないままでいでいた手法を用いて,ボクシングでそれが行われたという次第だ。手の内がわかっているだけに,わたしには,きわめて刺激的な作品となっている。
とりわけ圧巻なのは,著者の専門の一つである「メディア論」を取り込んで,20世紀以後のボクシングの変化・変容の過程を,綿密に探求したくだりであろう。19世紀末に絵画にとって代わって写真が登場し,さらに,ラジオが普及し,映画の時代に入る。すると,ボクシングは爆発的な人気を呼び,一気にボクシングが人びとの身近な存在となっていく。その仕上げをしたのがテレビである。モハメド・アリやマイク・タイソンといった超スターは,こうした背景から生まれてくる。そのことを,きわめて納得のいく方法で明らかにしてくれる。
ボクシングとはなにか。それぞれの時代や社会を生きる人間にとって,ボクシングとはなにか。著者カシア・ボディの問題意識の底流には,いつも,この問いが流れているように思う。いったい,人間は,なぜ,拳で殴りあう身体技法を,わざわざスポーツとして温存させようとしたのであろうか。そして,なぜ,こんな荒っぽいスポーツにこれほどの人気があるのか。このことの詳細については,監訳者あとがきに書いておいたので,そちらを参照していただきたい。
でも,長い間,このブログを読んでくださっている読者にとっては想定内のことだ。結論だけを述べておこう。ボクシングとは,人間の内なる野生への「回帰願望」の表出である,と考えている。だから,ボクシングの文化史を考えるということは,とりもなおさず,人間とはなにか,という問いの答えを導き出す営みと同じである。
そんな眼で,本書を手にとっていただけることを,お二人の訳者ともども,こころから願っている。
珍しいボクシングに関する図版がいっぱいあって,ページをめくるだけでも楽しい本である。乞う,ご期待!
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