2011年11月26日土曜日

竹内敏晴さんのレッスンを記録した映画をみる。

竹内敏晴さんが亡くなられて,すでに2年が経過している。いつのまに,こんなに多くの時間が流れてしまったのだろうか,と不思議な思いがする。いまでも,にこにこ笑顔でひょっこり現れて,いきなり問題の核心に触れるお話をされる夢をみる。だから,竹内さんの存在は,まだまだ身近な存在のままだ。

そんな竹内さんのお元気な姿を映像で拝見して,「久しぶりにお会いしたなぁ」という,そんな印象が強い。
昨夜(11月25日),早稲田大学言語文化教育研究会が主催する,竹内レッスンの記録映画「語りかける からだとことば 自分の声と出会う」を見にでかけた。場所は,早稲田大学22号館8階会議室。

映画は,2000年に東京賢治の学校の先生方や保護者の方たちを対象に,竹内さんが行ったレッスン(宮澤賢治『鹿踊りのはじまり』)をまとめたもの。なにしろ,竹内さんが亡くなられる9年前のレッスンなので,まだまだ,若々しいし,声も大きいし,とてもお元気。だから,なにより印象に残ったのは,竹内さんのその声のとどき方。強弱アクセントをつけながら,ここというときの声の力強さ。その迫力。それは,からだの緊張をゼロにした,弛緩したからだ,つまり,ひらかれたからだから発せられるゆったりとした声に,聞き手はついひきこまれていく,そこに,全身を貫くような強い声がひびく。

間のとり方といい,強弱のアクセントといい,その場の情景を全身で受け止めながらことばに声を託すことといい,ことばとからだのコラボレーションといい,この映画(レッスン)を見ながら考えることはたくさんあった。その基本は,自然体で立つこと。自然体で相手と向き合うこと。しかし,これが一番,むつかしい。その自然体に接近するためのさまざまなレッスン。

からだの緊張を解きほぐすための「ゆらし」,喉の緊張を解くためのさまざまな身体技法,野口体操に竹内さんの工夫が加えられ,つぎからつぎへとからだと喉と声の結びつきを確認しながら,自分の声を取り戻すためのレッスン。そして,次第に,その人の本来の声をとりもどしていく。ときにやさしく,ときにきびしく。ときには,怒気すら感ずる竹内さんの一歩もゆずらない毅然とした態度に鳥肌が立つ。迫力満点だ。

こうしたレッスンを全部で6回(1回がほぼまる一日かかるので,6日間と考えてもいい)。このレッスンをとおして宮澤賢治の『鹿踊りのはじまり』を,演劇として完成させていく。そのプロセスがじつに素晴らしい。演劇のプロである俳優さんたちに演技指導をするのとは違って,学校の先生方や保護者の方たちという,演劇ということに関してはいわば素人集団を相手に,みごとな変身をさせてしまう竹内マジック。声の出し方,身のこなし方,その場その場のインプロビゼーション,顔の表情,目線,などなど。

わたし自身は,こうした本格的なレッスンを受けたことがないので,初めて「じかに」竹内さんからレッスンをしてもらったような感覚だった。ただ,ごく簡単な「呼びかけのレッスン」を,ある座談の途中でやってくださったことがあるので,「声がとどく」ということがどういうことなのか,ということはからだでわかる。だから,その延長線上にあるレッスンとして,半分は想像いで補いながら,あとの半分はからだにひびいた。正直に言ってしまえば,どこか,宙ぶらりんの変な感じではあった。そして,それは,どこか「拒絶」につながる瞬間のようなものもないまぜになっていたように思う。この感覚がどこからくるのかは,少し,慎重に考えなくてはいけないな,と思う。

この映画の上映のあと,高田豪さんのトークがあった。34年の長きにわたる竹内さんとのかかわり(途中,10年ほどのブランクがあるものの)をとおして,いま,感ずるところを思い出すままに素直に語ってくださった。しかし,どうやら,竹内敏晴という人の存在を対象化して,客観的に語るという境地にはまだ至らないらしく,思いが千々に乱れる。それはそれで,実感がよくでていて,それなりに伝わるものはある。でも,ほんとうに,いま,感じていることはなにであるのか,ということをもう少し忌憚なく披瀝してくれてもよかったのでは・・・・とも思う。

最後に,この会を主催した代表者の方(大学院教授)からの話があったが,このことについては触れないでおこう。あまりのお粗末さに唖然としてしまったから。受け止め方によっては,竹内敏晴さんに対して失礼ではないか,という内容でもあった。折角の素晴らしい企画が台無し。残念。

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