上宮天満宮が築造されたときの伝承の概略は以下のようです。
菅原道真の子孫からは代々,立派な学者が輩出し,朝廷にも重く取り立てられていました。その功績によって,菅原道真の汚名はきれいに拭いさられ,ついには,朝廷から「正一位」の位が道真に追賜されることになります。そして,道真の何代目かの子孫の一人が(名前は調べればすぐにわかるのですが,省略),朝廷からの使者として太宰府に向かいます。その帰路,いまの高槻市に住む豪族のところに宿ります。そして,その翌朝,牛車で出発しようとしたところが,牛がうずくまったまま動こうとはしません。これは変だということになり,この牛の行為の意味を占ったところ,この地にも道真の霊を祀る社をつくるべし,とでます。そこで,大急ぎで道真を祀る社をつくることになります。それが,現在の上宮天満宮だ,というのです。しかも,そこには野見宿禰の墳墓があったというのです。それが,いまの野身神社です。
この話はどう考えてみても,できすぎです。これだけうまくできているということは,なにか,理由があるはずです。
ほんとうの話は以下のようではなかったか,とわたしは推測しています。
菅原家(菅家)の子孫が代々優れた学者を輩出しているという事実から考えてみても,野見宿禰の墳墓がこの地に祀られているということは充分承知していたと思います。ですから,正一位の位を追賜されたのを機会に,始祖の野見宿禰の墳墓のある地に道真の社を築造しようと子孫たちが考えるのはきわめて自然です。その計画を朝廷に願いでて,その許可をえて実行した。だから,上宮天満宮と名づけられたのでしょう。そして,そののちに北野天満宮が朝廷によって築造されることになります。
ここにうずくまる牛の話を盛り込むところが,菅原家の智慧だったのかも知れません。つまり,菅家一族の一存で,野見宿禰の墳墓の地に天満宮を築造するのは憚られたのでしょう。そこで,一計を案じて「うずくまる牛」を演出し,菅家の意志ではなく,神の声,神のご意志によるとして,天満宮築造の許可を朝廷からえたのではないか,とまあ,これはわたしの勝手な想像です。そうすることによって,またまた,あらぬ讒言にさらされる愚を防止したのでは・・・?と。
ですから,高槻市野見町に鎮座する野見神社が,上宮天満宮にある野身神社から野見宿禰を勧請して合祀し,社名を牛頭天王社から野見神社に変える・・・という一連の流れは,わたしにとってはごく自然なことだったと考えられます。が,なぜか,野見神社の社務所では,野見宿禰を合祀した理由はわかりません,と不思議な説明をしています。このことを秘さなければならない,なにか,とくべつの理由でもあるのだろうか,とわたしは逆に勘繰ってしまいます。
今回のフィールドワークをとおして考えることはたくさんありました。しかも,まだまだ未解決なことばかりです。が,少なくとも,野見宿禰についての,これまでのわたしの理解をはるかに越える重要な情報がえられ,大満足でした。が,宿題も多くみつかりました。これからの楽しみにしておきたいと思います。
なお,今城塚古墳をめぐる継体天皇に関する情報も,帰宅してから,いろいろの文献で確認してみました。なぜか,埴輪をつくる土師氏と継体天皇とは,これまた密接な関係があったこともわかってきました。しかも,その拠点は越の国であり,この天皇もまた忽然と歴史上に現れます。その天皇の墳墓が今城塚古墳として,なにゆえに高槻市に存在するのか,これもまた謎です。
野見宿禰も,あるとき忽然と歴史上に登場します。そして,こちらは土師氏の名前を天皇から授かります。そして,埴輪と葬送儀礼の職能集団として大きな勢力を誇ることになります。継体天皇もまた忽然と現れ,なぜか埴輪と深い縁で結ばれています。しかも,この継体天皇がこんにちの天皇家の始祖ではないか,という説が根強く残っています。いまも,それを主張する学者もいます。なのに,なぜか今城塚古墳は宮内庁の管轄ではありません。長い間,放置されたままになっていいました。これもまた不思議なことのひとつです。
そのお蔭といってはなんですが,この古墳は広く市民に解放されていて,古墳の上を散策することもできます。また,発掘された埴輪の一部を模造して,オープン・スペースに展示してあります。それが,葬送の行列になっています。その中に,4体の力士埴輪が含まれています。古代にあっては,力士もまた葬送儀礼と深く結びついていました。野見宿禰が強い力士としてその名を馳せていたというのも故無しとしません。なお,葬祭儀礼と力士の関係は,世界的な現象でもあります。
以上,とりあえず,今回のフィールドワークをきっかけに,わたしの思考を触発した,わたしにとってはとても面白いと思われることがらについて書き記してみました。この話題はひとまず,ここで終わりにしておきます。なお,ブログですので,資料や典拠についてはすべて割愛しました。お許しのほどを。
菅原道真の子孫からは代々,立派な学者が輩出し,朝廷にも重く取り立てられていました。その功績によって,菅原道真の汚名はきれいに拭いさられ,ついには,朝廷から「正一位」の位が道真に追賜されることになります。そして,道真の何代目かの子孫の一人が(名前は調べればすぐにわかるのですが,省略),朝廷からの使者として太宰府に向かいます。その帰路,いまの高槻市に住む豪族のところに宿ります。そして,その翌朝,牛車で出発しようとしたところが,牛がうずくまったまま動こうとはしません。これは変だということになり,この牛の行為の意味を占ったところ,この地にも道真の霊を祀る社をつくるべし,とでます。そこで,大急ぎで道真を祀る社をつくることになります。それが,現在の上宮天満宮だ,というのです。しかも,そこには野見宿禰の墳墓があったというのです。それが,いまの野身神社です。
この話はどう考えてみても,できすぎです。これだけうまくできているということは,なにか,理由があるはずです。
ほんとうの話は以下のようではなかったか,とわたしは推測しています。
菅原家(菅家)の子孫が代々優れた学者を輩出しているという事実から考えてみても,野見宿禰の墳墓がこの地に祀られているということは充分承知していたと思います。ですから,正一位の位を追賜されたのを機会に,始祖の野見宿禰の墳墓のある地に道真の社を築造しようと子孫たちが考えるのはきわめて自然です。その計画を朝廷に願いでて,その許可をえて実行した。だから,上宮天満宮と名づけられたのでしょう。そして,そののちに北野天満宮が朝廷によって築造されることになります。
ここにうずくまる牛の話を盛り込むところが,菅原家の智慧だったのかも知れません。つまり,菅家一族の一存で,野見宿禰の墳墓の地に天満宮を築造するのは憚られたのでしょう。そこで,一計を案じて「うずくまる牛」を演出し,菅家の意志ではなく,神の声,神のご意志によるとして,天満宮築造の許可を朝廷からえたのではないか,とまあ,これはわたしの勝手な想像です。そうすることによって,またまた,あらぬ讒言にさらされる愚を防止したのでは・・・?と。
ですから,高槻市野見町に鎮座する野見神社が,上宮天満宮にある野身神社から野見宿禰を勧請して合祀し,社名を牛頭天王社から野見神社に変える・・・という一連の流れは,わたしにとってはごく自然なことだったと考えられます。が,なぜか,野見神社の社務所では,野見宿禰を合祀した理由はわかりません,と不思議な説明をしています。このことを秘さなければならない,なにか,とくべつの理由でもあるのだろうか,とわたしは逆に勘繰ってしまいます。
今回のフィールドワークをとおして考えることはたくさんありました。しかも,まだまだ未解決なことばかりです。が,少なくとも,野見宿禰についての,これまでのわたしの理解をはるかに越える重要な情報がえられ,大満足でした。が,宿題も多くみつかりました。これからの楽しみにしておきたいと思います。
なお,今城塚古墳をめぐる継体天皇に関する情報も,帰宅してから,いろいろの文献で確認してみました。なぜか,埴輪をつくる土師氏と継体天皇とは,これまた密接な関係があったこともわかってきました。しかも,その拠点は越の国であり,この天皇もまた忽然と歴史上に現れます。その天皇の墳墓が今城塚古墳として,なにゆえに高槻市に存在するのか,これもまた謎です。
野見宿禰も,あるとき忽然と歴史上に登場します。そして,こちらは土師氏の名前を天皇から授かります。そして,埴輪と葬送儀礼の職能集団として大きな勢力を誇ることになります。継体天皇もまた忽然と現れ,なぜか埴輪と深い縁で結ばれています。しかも,この継体天皇がこんにちの天皇家の始祖ではないか,という説が根強く残っています。いまも,それを主張する学者もいます。なのに,なぜか今城塚古墳は宮内庁の管轄ではありません。長い間,放置されたままになっていいました。これもまた不思議なことのひとつです。
そのお蔭といってはなんですが,この古墳は広く市民に解放されていて,古墳の上を散策することもできます。また,発掘された埴輪の一部を模造して,オープン・スペースに展示してあります。それが,葬送の行列になっています。その中に,4体の力士埴輪が含まれています。古代にあっては,力士もまた葬送儀礼と深く結びついていました。野見宿禰が強い力士としてその名を馳せていたというのも故無しとしません。なお,葬祭儀礼と力士の関係は,世界的な現象でもあります。
以上,とりあえず,今回のフィールドワークをきっかけに,わたしの思考を触発した,わたしにとってはとても面白いと思われることがらについて書き記してみました。この話題はひとまず,ここで終わりにしておきます。なお,ブログですので,資料や典拠についてはすべて割愛しました。お許しのほどを。
上宮天満宮の本殿。 屋根は竹でできているとても珍しい社殿のつくりです。 境内にはおびただしい竹林があるので,それを用いたとのこと。でも,それだけではない,というのがわたしの推理。この写真は,本殿の横から写したもの。正面は左側。 |
1 件のコメント:
おもしろいだにぉぉぉ
いながきしぇんしぇいの一連のブログ、
とても参考になっただにぉ。。。
やはり継体天皇のことは気になるだにねぇ
御霊信仰と片付けられない由縁がある気がしてならないだにぉぉぉ。
兵庫などにあるノミと由縁のある土地にも行きたいだにぃ
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