1月11日(金)に奈良教育大学大学院の授業に参加させていただきました。院生さんを前にして話をするのは久しぶりでしたので,とても楽しみにしていました。
奈良教育大学は,かつて,わたしが19年間,お世話になっていた大学です。いわば,わたしの古巣でもあります。その大学に,いま,体育原理を担当する I 先生がいらっしゃいます。わたしの教え子のひとりです。その I 先生が,大学院の授業のテクストとして『近代スポーツのミッションは終わったか』(稲垣・今福・西谷共著,平凡社)を用いているというのです。そして,いつかチャンスがあったら,このテクストの著者のひとりとして,ぜひ,この授業に顔を出してほしいという依頼がありました。それがようやく実現したというわけです。
大学院のゼミですので,院生さんは4人,そこに卒業生が1人,そして I 先生とで計6人。とても,こじんまりとしたアットホームな雰囲気がすでにできあがっていました。ですから,最初からなんの違和感もなく,するりと授業のなかに入ることができました。ほんとうに気持ちよく古巣にもどってきた気分になれました。
I 先生の希望としては,著者の生の声を院生さんたちに聞かせてあげたいので,あまり構えないで,本音の話をしてくれるとありがたい,ということでした。そして,院生さんたちが質問を用意しているので,それに応答してください,と。じゃあ,なにも用意することなく,フリー・ハンドで参加させてもらいます,ということになりました。
テクストの方はすでに第3章まで読み進んでいるとのことでした。それなら,内容もほぼ理解しているはずので,あまり細かな説明は不要と判断。その場で思いつくことをそのままお話することにしました。そのうちのひとつをここではご紹介しておきたいと思います。
それは,「近代スポーツのミッション」とは具体的にはどういうことなのか,というまことにまっとうな質問でした。考えてみれば,わたしたち著者の意識としては,もはや説明の必要のない自明のことという前提に立っていましたので,「近代スポーツのミッション」についてはなんの解説も断りもしていません。言ってみれば,著者たちの虚をつくような問いでした。
そこで,あわてて思いつくまま,概ね,つぎのような話をしました。
近代という時代は,前近代の諸矛盾を克服する時代としてヨーロッパからはじまります。いろいろの考え方がありますが,そのひとつは,フランス革命によってその幕が切って落とされたといわれています。そこでの理念は,自由・平等・博愛でした。つまり,前近代までの身分制度を廃止して,みんな自由で平等な社会をつくろうというわけです。そして,法律(憲法)を定めてそれらを保証しようとしました。つまり,法のもとでの自由・平等です。
そうして始まった近代社会で求められたのは,個々人の能力と努力に応じた生き方でした。一生懸命に努力をすれば,それにふさわしい人生を切り開くことができる,と考えられました。ですから,みんな必死になって,よりよい生き方を求めて努力することになりました。その結果,「自由競争」という考え方が社会の細部にまで浸透していきます。つまり,自由な社会での平等な条件のもとでの「競争原理」が人びとの間で認知されるようになりました。
この「競争原理」を,まことにわかりやすく説いた文化装置のひとつとして,近代スポーツが登場します。たとえば,100m競走。みんなが同じ条件で,つまり,平等に,100mという距離を,可能なかぎり速く走ることを競います。そして,着順が「判定」され,時間が測定され,記録されるようになります。こうして,優れている者は速く走り,劣っている者は遅い,という「優勝劣敗主義」という考え方が,だれの目にも明らかになっていきます。そして,いやおうなく広まっていきます。気がついてみれば,いつのまにか人びとの無意識にまで浸透しています。ですから,いまでは,スポーツの世界でこの考え方に疑問をいだく人はほとんどいなくなってしまいました。
こうした「優勝劣敗主義」は,たんに近代スポーツの世界だけではなく,あらゆる分野にも適用されるようになります。とくに,資本主義社会においては,自由・平等の名のもとに「資本」の力が競われることになります。もう,みなさんもよくわかっていることですので,くわしいことは省略します。が,こうして,気がつくと,わたしたちの,いま,生きている,この現代社会に到達しているというわけです。これも詳しく述べるまでもなく,さまざまな矛盾だらけの社会が露呈しはじめています。その諸矛盾の到達点のひとつが「原発」の問題です。とうとう「資本」の力が「命」を襲うところまできてしまいました。
これと同じことが,近代スポーツの世界にも起こっています。すなわち,「ドーピング」の問題です。こちらは「命」の問題はもとより,「自由競争」という基本原理までもが脅かされることになりました。そして,「優勝劣敗主義」そのものにも疑問符をつける人が,少しずつ現れはじめています。少なくとも,『近代スポーツのミッションは終わったか』の著者たちは,ここに大きな問題関心を寄せて議論をしています。
以上のように,「ルール」を守りながら,「自由競争」をすることが近代という時代・社会のミッションとして求められました。その上で,近代スポーツもまたおおいなる貢献をしたわけです。しかし,「競争原理」が過剰に機能しはじめたことによって,当初,予想されていた「予定調和」が大きく崩れはじめてきました。そのひとつが,こんにち,わたしたちが直面している近代スポーツのもろもろの局面に現れています。これではまずいのではないか,これを超克する新たな可能性をどこに求めていけばいいのか,ということを探ろうとしました。それが,このテクストの論者たちの基本的な考え方です。
ですから,近代スポーツのミッションはすでに終わって,つぎの段階に突入しているのではないかという前提に立って,この3人の論者は真剣に議論しているわけです。
というような応答をした上で,院生さんたちに,これ以外の「近代スポーツのミッション」について議論してもらいました。なかなか,面白い議論が展開し,とても有意義な時間を過ごすことができました。このほかにも面白い話題がいくつも展開しましたので,みんな満足してもらえたのではないかと思っています。
こういう人たちとは,また,お会いして話をしてみたいなぁ,といまも思っています。
奈良教育大学は,かつて,わたしが19年間,お世話になっていた大学です。いわば,わたしの古巣でもあります。その大学に,いま,体育原理を担当する I 先生がいらっしゃいます。わたしの教え子のひとりです。その I 先生が,大学院の授業のテクストとして『近代スポーツのミッションは終わったか』(稲垣・今福・西谷共著,平凡社)を用いているというのです。そして,いつかチャンスがあったら,このテクストの著者のひとりとして,ぜひ,この授業に顔を出してほしいという依頼がありました。それがようやく実現したというわけです。
大学院のゼミですので,院生さんは4人,そこに卒業生が1人,そして I 先生とで計6人。とても,こじんまりとしたアットホームな雰囲気がすでにできあがっていました。ですから,最初からなんの違和感もなく,するりと授業のなかに入ることができました。ほんとうに気持ちよく古巣にもどってきた気分になれました。
I 先生の希望としては,著者の生の声を院生さんたちに聞かせてあげたいので,あまり構えないで,本音の話をしてくれるとありがたい,ということでした。そして,院生さんたちが質問を用意しているので,それに応答してください,と。じゃあ,なにも用意することなく,フリー・ハンドで参加させてもらいます,ということになりました。
テクストの方はすでに第3章まで読み進んでいるとのことでした。それなら,内容もほぼ理解しているはずので,あまり細かな説明は不要と判断。その場で思いつくことをそのままお話することにしました。そのうちのひとつをここではご紹介しておきたいと思います。
それは,「近代スポーツのミッション」とは具体的にはどういうことなのか,というまことにまっとうな質問でした。考えてみれば,わたしたち著者の意識としては,もはや説明の必要のない自明のことという前提に立っていましたので,「近代スポーツのミッション」についてはなんの解説も断りもしていません。言ってみれば,著者たちの虚をつくような問いでした。
そこで,あわてて思いつくまま,概ね,つぎのような話をしました。
近代という時代は,前近代の諸矛盾を克服する時代としてヨーロッパからはじまります。いろいろの考え方がありますが,そのひとつは,フランス革命によってその幕が切って落とされたといわれています。そこでの理念は,自由・平等・博愛でした。つまり,前近代までの身分制度を廃止して,みんな自由で平等な社会をつくろうというわけです。そして,法律(憲法)を定めてそれらを保証しようとしました。つまり,法のもとでの自由・平等です。
そうして始まった近代社会で求められたのは,個々人の能力と努力に応じた生き方でした。一生懸命に努力をすれば,それにふさわしい人生を切り開くことができる,と考えられました。ですから,みんな必死になって,よりよい生き方を求めて努力することになりました。その結果,「自由競争」という考え方が社会の細部にまで浸透していきます。つまり,自由な社会での平等な条件のもとでの「競争原理」が人びとの間で認知されるようになりました。
この「競争原理」を,まことにわかりやすく説いた文化装置のひとつとして,近代スポーツが登場します。たとえば,100m競走。みんなが同じ条件で,つまり,平等に,100mという距離を,可能なかぎり速く走ることを競います。そして,着順が「判定」され,時間が測定され,記録されるようになります。こうして,優れている者は速く走り,劣っている者は遅い,という「優勝劣敗主義」という考え方が,だれの目にも明らかになっていきます。そして,いやおうなく広まっていきます。気がついてみれば,いつのまにか人びとの無意識にまで浸透しています。ですから,いまでは,スポーツの世界でこの考え方に疑問をいだく人はほとんどいなくなってしまいました。
こうした「優勝劣敗主義」は,たんに近代スポーツの世界だけではなく,あらゆる分野にも適用されるようになります。とくに,資本主義社会においては,自由・平等の名のもとに「資本」の力が競われることになります。もう,みなさんもよくわかっていることですので,くわしいことは省略します。が,こうして,気がつくと,わたしたちの,いま,生きている,この現代社会に到達しているというわけです。これも詳しく述べるまでもなく,さまざまな矛盾だらけの社会が露呈しはじめています。その諸矛盾の到達点のひとつが「原発」の問題です。とうとう「資本」の力が「命」を襲うところまできてしまいました。
これと同じことが,近代スポーツの世界にも起こっています。すなわち,「ドーピング」の問題です。こちらは「命」の問題はもとより,「自由競争」という基本原理までもが脅かされることになりました。そして,「優勝劣敗主義」そのものにも疑問符をつける人が,少しずつ現れはじめています。少なくとも,『近代スポーツのミッションは終わったか』の著者たちは,ここに大きな問題関心を寄せて議論をしています。
以上のように,「ルール」を守りながら,「自由競争」をすることが近代という時代・社会のミッションとして求められました。その上で,近代スポーツもまたおおいなる貢献をしたわけです。しかし,「競争原理」が過剰に機能しはじめたことによって,当初,予想されていた「予定調和」が大きく崩れはじめてきました。そのひとつが,こんにち,わたしたちが直面している近代スポーツのもろもろの局面に現れています。これではまずいのではないか,これを超克する新たな可能性をどこに求めていけばいいのか,ということを探ろうとしました。それが,このテクストの論者たちの基本的な考え方です。
ですから,近代スポーツのミッションはすでに終わって,つぎの段階に突入しているのではないかという前提に立って,この3人の論者は真剣に議論しているわけです。
というような応答をした上で,院生さんたちに,これ以外の「近代スポーツのミッション」について議論してもらいました。なかなか,面白い議論が展開し,とても有意義な時間を過ごすことができました。このほかにも面白い話題がいくつも展開しましたので,みんな満足してもらえたのではないかと思っています。
こういう人たちとは,また,お会いして話をしてみたいなぁ,といまも思っています。
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