2013年1月23日水曜日

神戸市外国語大学の最終講演の日が迫ってくる。緊張の日々。

 神戸市外国語大学はとてもいい大学である。第一に,キャンパスのロケーションがいい。高台にあって空気がきれいでおいしい。背後には山があって,その山をかき分けて少し登れば素晴らしい眺望を楽しむこともできる。そこには古代の古墳もある。それでいて,最寄りの駅から徒歩1分。こじんまりとしたキャンパスはアットホームな雰囲気があって,学生さんたちも楽しそうだ。だから,たまにしか訪れないわたしなどにもとても居心地がいい。

 そんな神戸市外国語大学が,こんどの3月26日で満75歳を迎えるわたしを客員教授として3年間も雇ってくださった。ありがたい(=ありえない)ことである。最初の2年間は,集中講義で,学生さんたちと楽しく過ごさせてもらった。そして,最後の3年目は年に4回の講演をすることになった。これは学生さんだけではなく神戸市民にも公開で行われる。その最後の,第4回目の講演がこんどの金曜日(1月25日)に迫ってきている。いつもにもまして,早くも緊張が高まっている。やはり,有終の美を飾りたいと思うから。

 連続で4回の講演をさせていただけるということなので,ならば,通しテーマを立てて,一貫した話の組み立てにしようと考えた。通しテーマは「スポーツとはなにか」。じつは,このテーマはわたしが大学に入って,卒論を書くための研究室を決めるときから,わたしの中にはっきりと意識しはじめていたものである。「スポーツとはなにか」。この謎解きをするために,わたしは,まずは「歴史的」な観点から取り組んでみようと考えた。その結果が,恩師岸野雄三先生との出会いとなり,こんにちのわたしをあらしめてくださった。もう,かれこれ55年になんなんとしている。この間,ずっと「スポーツとはなにか」とわたしは自問自答してきた。長い長いトンネルだった。

 「スポーツとはなにか」。終わりのない問いでもあった。しかし,つい最近になって,ようやく「スポーツとはなにか」のわたしなりの「解」がみえてきた。よし,これを4回に分けて話をしてみよう,と決断。そして,講演が無事に終わったら,その内容を単行本にまとめてみよう,と。だから,最初から,かなりの気合が入っている。その最終回がこんどの25日(金)というわけである。だから,緊張感も一入である。

 ありがたいことに,「スポーツとはなにか」というタイトルの単行本企画も,引き受けてくれる出版社も,すでに決まっている。だから,なおのこと,こんどの最終講演には気合が入る。どのように展開して,どのように落とそうか,智慧の出しどころである。

 4回の連続講演のテーマは以下のとおりである。
 第一回目:スポーツのルーツ(始原)について考える。
 第二回目:伝統スポーツの存在理由について考える。
 第三回目:グローバル・スタンダードとしての近代スポーツについて考える。
 第四回目:21世紀を生きるわたしたちのスポーツについて考える。

 こうしてテーマを書きつらねてみると,いつのまにか,スポーツ史を語っていることがわかる。伝統的なアカデミズムに則れば,みごとに「古代」「中世」「近代」「現代」の4時代区分でテーマがかかげられている。しかし,わたしの意識としては,第一回目と第二回目は「前近代」,第三回目が「近代」,そして第四回目が「後近代」,というわたしの発想にもとづく3時代区分である。この時代区分にこだわり,提唱している理由は,あくまでも,「近代」という時代がいかに特異・特殊な時代であったかということをクローズアップさせることにある。

 わたしたちは,ようやくにして,「近代」という時代の奇怪しさに気づきはじめ,この時代がいまや臨界点に達しているという,つまりは,極限状態だということを認識しはじめている。となれば,この「近代」という時代をどのようにして超克していくのか,が問われていることになる。「近代」の極限状態とは,すなわち,スポーツの領域に持ち込めば,「近代スポーツ競技」の臨界点ということだ。この「近代スポーツ競技」がいま,どのような情況に追い込まれているのかということを突き詰めて考えていけば,つぎなる「後近代」への突破口がみえてくる。

 それも,スポーツのルーツを問い返し,伝統スポーツの存在理由を考えることによって,近代スポーツ競技が陥った隘路が浮き彫りにされ,やがては21世紀のスポーツ文化が,おのずからその姿をみせはじめる,というのがわたしのいま考えていることである。これを,こんどの講演会で論じてみたいと思う。


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