2013年1月24日木曜日

「有用性の限界」(バタイユ)とスポーツ文化について考える。

  明日(25日)に予定されている神戸市外大の講演の,最後の落しどころについて,いまごろになって考えている。テーマは「21世紀を生きるわたしたちのスポーツについて考える」。つまり,「21世紀を生きるわたしたちのスポーツ」が,いま,どのような情況に置かれているのかということを明確に位置づけなくてはならない。

 それを語るには,さまざまな前提条件を確認することが必要なのだが,それをこのブログで展開していると,落しどころに到達しないので,省略。で,いきなり,核心部分について,覚書風に書いてみたい。つまりは,わたしの頭の中を整理するために。

 今回の年4回の連続講演の第一回は「スポーツのルーツ(始原)について考える」というもので,そのときにスポーツなるものが「立ち現れる」きっかけはなにであったのか,という問題について考えてみた。そのときの論旨の根拠とした思想・哲学はジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』であり,『有用性の限界 呪われた部分』である。

 バタイユの考えによると,動物の世界から<横滑り>して原初の「人間」が立ち現れたときに,その後のすべての人間にかかわる問題が発生したという。つまり,人間がたんなる動物であった時代には,動物と同じように内在性の世界を生きていればよかった。「水のなかに水があるように」自他の区別もなく存在していればよかった。しかし,そこから<横滑り>して,するりと動物性(内在性)の世界から抜け出してしまった原初の人間は,自分の頭で考えるということをはじめた。

 考えるためには,ものに名前をつけることが必要になる。つまり,ものをことばにすることによって新たな概念が生まれる。ここに,まずは,ものとことばの間に大きな断裂が生まれる。たとえば,石。大きな石も,小さな石も,みんな「石」と呼ばれることになる。そして,このことばが人間の世界を新たにつくりあげていくことになる。

 内在性(水のなかに水があるような存在の仕方)を生きていた時代には,自己と他者の区別がない。つまり,自己と石の区別がない。みんな同じ内在性を生きている。ところが,あるとき「もの」(オブジェ)の存在が突然意識にのぼりはじめる。この意識にのぼりはじめる瞬間が,すなわち,バタイユのいう<横滑り>のはじまりだ。つまり,他者の存在に気づくことによって,はじめて自己というものの意識が生まれる。つまり,そういうもの(オブジェ)に名前をつけるということは,自己と他者の区別をするということだ。

 この名づけが行われたもの(オブジェ)は,ふたつの種類に分類されていく。ひとつは,自己にとってつごうのいいもの,もうひとつは,自己にとってつごうの悪いもの,である。自己にとってつごうがいいということは,自己の役に立つということ,すなわち,有用性があるということ。たとえば,石にも役に立つ石と,なんの役にも立たない石とがある。この分類の基準が有用性。役に立つ石は,やがて道具となる。つまり,人間の所有物となる。これが事物(ショーズ)だ。

 おおざっぱに言ってしまえば,人間の進化は,オブジェに気づき,それらを有用性の視点から分類し,ショーズにしていく過程だ。その主役を演じたのが理性だ。そのうちに,その理性は,なぜ,どうして,という因果関係を考えるようになる。この理性の行き着いたところのひとつ分野が近代科学だ。やがて,ダイナマイトを発明し,核を手にいれ,原爆・原発へ,そして,ついにはiPS細胞にいたる。こんにちのわたしたちは,こういう近代科学の最先端の時代を生きている。ここにいたって,初めてわたしたちは「有用性の限界」ということに気づく。

 それだけではない。オブジェに気づき,それをショーズにし,自己の思いのままに役立てることができると信じていた自己もまた,気づいてみたら,ショーズとなりはてていたのだ。つまり,自己を見失い,だれかに利用されているだけの存在に。そして,ついには,だれからも相手にもされない,たんなるオブジェになりはててしまっている。これが,こんにちのわたしたちの偽らざる姿だ。「21世紀を生きる」ということはこういうことなのだ。このような情況のなかを生きる「わたしたち」にとってスポーツとはなにか。

 スポーツは「有用性の限界」を超克することができるのか。そのことを考えるヒントをふんだんに提供してくれているテクストが,やはりバタイユの『宗教の理論』である。このテクストについては,2010年,2011年の2年間にわたって神戸市外大の「スポーツ文化論・演習」の授業をとおして,詳細にスポーツ文化論的読解を試みている。その一部は,ブログにも書いたとおりである。さらには,『スポートロジイ』(21世紀スポーツ文化研究所紀要・創刊号,2012年刊)にも掲載してあるとおり。詳細については,いずれかの方法でご確認いただきたい。

 このバタイユの『宗教の理論』に加えて,マルセル・モースの『贈与論』をしっかりと読み込むことによって,スポーツの「謎解き」はまったく新しい地平に立つことができる。そこには,スポーツはもともと「贈与」だったという事実,そして,たんなる「消尽」にすぎなかったという事実を裏づける理論仮説がふんだんに詰まっている。

 もともと,贈与であり,消尽にすぎなかったスポーツもまた,いつのまにか「有用性」の原則に絡めとられてしまって,こんにちに至っている。たとえば,健康の保持増進のためにスポーツが役に立つという「スポーツ健康神話」がいまやピークに達しているといってよいだろう。しかし,この「スポーツ健康神話」もまた,その矛盾を露呈しはじめている。『スポーツはからだに悪い』などという題名の本もでているほどだ。これはひとつの極論にすぎないが,多くのトップ・アスリートたちのからだはぼろぼろである。ドーピング問題もその大きな壁である。そのようなことに,ようやく多くの人びとが気づきはじめている。しかし,まだまだ,圧倒的少数でしかないが・・・。

 その突破口は,有用性の原理に絡めとられてしまったスポーツを脱構築すること。すなわち,スポーツは贈与であり,消尽なのだというところから再出発すること。太陽が,だれのためでもない,ただひたすらエネルギーを消尽しつづけているように。そして,やがては消尽しつくすことを運命づけられているように。スポーツもまた,みずからに蓄えられたエネルギーを,感動体験のために消尽すること,そのための文化装置として位置づけること。ここでいう感動体験とは「自己を超えでる体験」を意味する。しかも,そこが人間が生きていることの証なのだ。

 若者たちがなりふりかまわず自己の能力の限界に挑戦していくのも,自己を超えでるときの感動体験がたまらない魅力だからだ。そして,そのようなパフォーマンスをみる観客もまた,自己を他者に重ね合わせて,同じように自己を超えでる感動体験をする。スポーツの本質はここにあるのであって,それ以外のなにものでもない。それこそが,贈与であり,消尽なのだ。

 それを,「カネ」のために,つまり,経済原則に絡めとられてしまってはならない。つまり,スポーツを商品化してはならない。アスリートがオブジェとなり,あるいは,ショーズとなり,巨額の契約金のもとに売り買いされている現実をどのようにして超克するか。あるいはまた,ドーピング問題をいかに解決させるのか。こんにちのわたしたちに突きつけられているスポーツの現実は重く,厳しい。しかし,ここを通過しないことには,未来はみえてこない。

 とはいえ,ここを通過するにはいくつもの高くて,厳しいハードルがある。その一つひとつをここで論じるいとまはない。が,大づかみに言っておけば,大量生産・大量消費というライフ・スタイルを根底から変えないかぎり解決策は見出せない,とわたしは考えている。つまり,贅沢な暮しの仕方に別れを告げることができるかどうか。地球資源や環境問題を考えても,そして,直近には電力の問題を考えても,すでに,臨界点に達している。無駄をはぶいた省エネ的なライフ・スタイルを確立すべきときにきている。

 スポーツもまた同様である。施設・設備が高度化してしまって,スポーツの大衆化を著しく阻害している。たとえば,体操競技を,クラブ活動として取り組むことのできる高校は全国で数校しか存在しない。体操競技をやってみたい高校生は全国に山ほどいる。しかし,あの施設・設備を整備できる高校は,少なくとも公立高校では不可能だ。だから,競技人口は著しく少ない。この事実をどう考えるのか。

 さて,長くなってしまったので,そろそろこの稿を終わりにしたい。

 スポーツには非難されるべき問題点,改善すべき課題が山ほどある。それでもなお,スポーツがわたしたちを魅了してやまないのはなぜか。それは,スポーツの本質である「感動体験」である。どんなにスポーツが腐敗し,頽廃しようとも,この「感動体験」だけは不思議に生きつづける。この「感動体験」こそが唯一の救いなのだ。だから,ここを起点にして,もう一度,スポーツのあり方を総点検していくことが求められている。大きな感動だけではなく,小さな感動でいい。大小さまざまな感動を,少しでも多くの人が体験できるような文化装置としてのスポーツを,わたしたちの手で取り戻すこと,これが喫緊の課題ではないか,とわたしは考える。

 こんな話を,明日は展開できれば・・・・と。あとは,祈るのみ。

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