利休の愛した茶碗をつくった長次郎を始祖とする楽焼の当主・第15代楽吉左衛門に密着取材したNHK新春スペシャル(1月3日午後9時~10時,NHKテレビ)をみた。午後8時45分からのニュースをみて,テレビを切ろうと思った瞬間に,楽吉左衛門という名前が画面に現れて,そのまま居すわって見入ってしまった。
とてもいい番組をみせてもらった。近頃はテレビでみるべき番組がほとんどなくなってしまって,もう,テレビの時代も終わったと嘆いていたが,こんないい番組もあるではないか。こういう番組をもっともっと制作してほしいものだ。
以前から少なからず,この第15代目となる楽吉左衛門の存在が気になっていた。最初に意識しはじめたのは,かれの書いた文章を読んで,この人はいったい何者?と思ったのがきっかけだった。以後,びわ湖にある佐川美術館へも足を運び,不思議な構造の地下展示場から天窓をふり仰ぎながら,いくつかの逸品を満喫したこともある。この人のみている世界はどんなものなのか,そこのところがわたしの最大の関心事。
その楽吉左衛門に2012年の9カ月間を密着取材したものが昨夜の映像だった。春と秋の年2回,窯に火を入れる。それに合わせて制作にとりかかる。土を練り,手ひねりで造形をし,さらにそれを削って,釉薬をかけ,みずからの理想の実現に向けて情熱を傾ける。その過程で発するかれのことばがとても印象的だった。今回は,そのいくつかを紹介しておこう。
その1.エネルギーがたまってくると,バンと爆発する。それを待つ。
基本は伝統的な茶碗をつくること。これをやっていると,それでは満足できなくなり,創作のエネルギーが溜まってきて,パンと爆発する。そのとき,創作に挑戦する。むかしは創作茶碗の形が現れ,これでよしとして手を引くまでに相当の時間がかかったが,最近はどんどん手が進む。手の動くままにまかせている。
その2.表現するとはどういうことかと考える。意識と自然とがうまく同調する,そのとき傑作が生まれる。
茶碗を焼くという仕事は,どこまで行っても自分の思うようにはできない。なぜなら,土も水も火もみんな自然のものだ。この自然との折り合いのつけ方は終わりがない。自分で表現したいという理想の造形は意識の中に鮮明にある。それを手びねりや削る作業をとおして表現する。しかし,最後は火という自然の力に委ねなくてはならない。その火加減にも細心の注意を払うが,これもまた終わりのない道だ。自分の意識と自然とがうまく同調したとき,傑作が生まれる。だから,表現するとはどういうことなのか,といつも考えている。表現とは,自分の意識の及ばないはるかな向こうからやってくるもの,だから,それを引き寄せる力をいかにしてわがものとするか,茶碗をつくるとはそんなものではないかと思っている。
その3.理想は存在感のあるもの・・・・岩石のような。
自然の存在にはいつも圧倒されてしまう。人の手をとおしてつくるものにはおのずからなる限界がある。茶碗は手びねりによって生み出される。それは手の形になじむものだ。つまり,手成りの世界だ。それはとても柔らかい表現になってしまう。だから,手びねりでできあがったものを,へらで削って削って,荒々しく存在感のある造形をめざす。そして,ようやく岩石のようなものが現れたとき手を引く。こうして焼きにとりかかる。焼いてみるとまた違ったものが現れてくる。そこはもはや人知を超えた世界だ。そのとき,どれだけ存在感のあるものが現れるか,そこが勝負だ。しかし,自然の岩石には遠く及ばない。
その4.長次郎の茶碗は,世の中に刃を突きつけている。
本阿弥光悦の意を帯してつくったといわれる長次郎の茶碗は,世の中に刃を突きつけているように見える。この激しさ,鋭さ,意思力には圧倒されてしまう。「わび」の世界は地味にみえるが,じつはそうではない。秀吉の,ピカピカの派手好みに対する徹底した抵抗の姿勢,それが「わび」の根源をなしている。その迫力を創作茶碗のなかに取り込みたい。が,まだまだ道は遠い。
その5.表現者の矛盾・・・・引き方がわからない。
制作の途中で自分がわからなくなることがある。自分はいったいなにをやっているのだろうか,と。つまり,表現の引き際がわからなくなる。だから,「いま」という瞬間に身を委ねるしかなくなる。「いま」のその瞬間の判断にまかせる。生きているということはそういうことではないのか。だから,前に向かってひたすら歩くしかない。立ち止まったら終わりだ。
まだまだ名言はあるが,このあたりにしておこう。
番組の終わりに,第15代楽吉左衛門は,「プロフェッショナル」について問われ,「そんなものはいません」とはっきりと言い切り,高笑いした。ちなみに,この番組の名前は「プロフェッショナル 新春スペシャル」だ。NHKの企画そのものを,高笑いで締めくくるあたりに楽吉左衛門の「突きつける」心意気を感じた。おみごと。爽快。
とてもいい番組をみせてもらった。近頃はテレビでみるべき番組がほとんどなくなってしまって,もう,テレビの時代も終わったと嘆いていたが,こんないい番組もあるではないか。こういう番組をもっともっと制作してほしいものだ。
以前から少なからず,この第15代目となる楽吉左衛門の存在が気になっていた。最初に意識しはじめたのは,かれの書いた文章を読んで,この人はいったい何者?と思ったのがきっかけだった。以後,びわ湖にある佐川美術館へも足を運び,不思議な構造の地下展示場から天窓をふり仰ぎながら,いくつかの逸品を満喫したこともある。この人のみている世界はどんなものなのか,そこのところがわたしの最大の関心事。
その楽吉左衛門に2012年の9カ月間を密着取材したものが昨夜の映像だった。春と秋の年2回,窯に火を入れる。それに合わせて制作にとりかかる。土を練り,手ひねりで造形をし,さらにそれを削って,釉薬をかけ,みずからの理想の実現に向けて情熱を傾ける。その過程で発するかれのことばがとても印象的だった。今回は,そのいくつかを紹介しておこう。
その1.エネルギーがたまってくると,バンと爆発する。それを待つ。
基本は伝統的な茶碗をつくること。これをやっていると,それでは満足できなくなり,創作のエネルギーが溜まってきて,パンと爆発する。そのとき,創作に挑戦する。むかしは創作茶碗の形が現れ,これでよしとして手を引くまでに相当の時間がかかったが,最近はどんどん手が進む。手の動くままにまかせている。
その2.表現するとはどういうことかと考える。意識と自然とがうまく同調する,そのとき傑作が生まれる。
茶碗を焼くという仕事は,どこまで行っても自分の思うようにはできない。なぜなら,土も水も火もみんな自然のものだ。この自然との折り合いのつけ方は終わりがない。自分で表現したいという理想の造形は意識の中に鮮明にある。それを手びねりや削る作業をとおして表現する。しかし,最後は火という自然の力に委ねなくてはならない。その火加減にも細心の注意を払うが,これもまた終わりのない道だ。自分の意識と自然とがうまく同調したとき,傑作が生まれる。だから,表現するとはどういうことなのか,といつも考えている。表現とは,自分の意識の及ばないはるかな向こうからやってくるもの,だから,それを引き寄せる力をいかにしてわがものとするか,茶碗をつくるとはそんなものではないかと思っている。
その3.理想は存在感のあるもの・・・・岩石のような。
自然の存在にはいつも圧倒されてしまう。人の手をとおしてつくるものにはおのずからなる限界がある。茶碗は手びねりによって生み出される。それは手の形になじむものだ。つまり,手成りの世界だ。それはとても柔らかい表現になってしまう。だから,手びねりでできあがったものを,へらで削って削って,荒々しく存在感のある造形をめざす。そして,ようやく岩石のようなものが現れたとき手を引く。こうして焼きにとりかかる。焼いてみるとまた違ったものが現れてくる。そこはもはや人知を超えた世界だ。そのとき,どれだけ存在感のあるものが現れるか,そこが勝負だ。しかし,自然の岩石には遠く及ばない。
その4.長次郎の茶碗は,世の中に刃を突きつけている。
本阿弥光悦の意を帯してつくったといわれる長次郎の茶碗は,世の中に刃を突きつけているように見える。この激しさ,鋭さ,意思力には圧倒されてしまう。「わび」の世界は地味にみえるが,じつはそうではない。秀吉の,ピカピカの派手好みに対する徹底した抵抗の姿勢,それが「わび」の根源をなしている。その迫力を創作茶碗のなかに取り込みたい。が,まだまだ道は遠い。
その5.表現者の矛盾・・・・引き方がわからない。
制作の途中で自分がわからなくなることがある。自分はいったいなにをやっているのだろうか,と。つまり,表現の引き際がわからなくなる。だから,「いま」という瞬間に身を委ねるしかなくなる。「いま」のその瞬間の判断にまかせる。生きているということはそういうことではないのか。だから,前に向かってひたすら歩くしかない。立ち止まったら終わりだ。
まだまだ名言はあるが,このあたりにしておこう。
番組の終わりに,第15代楽吉左衛門は,「プロフェッショナル」について問われ,「そんなものはいません」とはっきりと言い切り,高笑いした。ちなみに,この番組の名前は「プロフェッショナル 新春スペシャル」だ。NHKの企画そのものを,高笑いで締めくくるあたりに楽吉左衛門の「突きつける」心意気を感じた。おみごと。爽快。
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