大鵬といえば柏戸。この二人はセットだった。柔の大鵬,剛の柏戸。このふたりの相撲は面白かった。どちらが得意の型にもちこむかで勝負は決まった。だから,組んずほぐれつの相撲が展開した。大鵬は柏戸をつかまえて四つに組みたい。柏戸は突っ張っておいて,大鵬をはずにあてがって一気に寄り切りたい。それを嫌って大鵬もあの手この手をくりだして,四つに組み止めてからじっくりと攻める。柏戸は立ち合いから一気に,一直線にがぶりたい。この攻防はみごとだった。だから,千秋楽の横綱対決は,立ち会うまでが大変だった。つまり,仕切り直しをしている間に息が詰まってしまって,息苦しくて仕方がなくなってしまう。これがまたたまらなかった。立ち上がってからの濃密な数秒間,呼吸を止めてテレビを見入ったものだ。
その大鵬さんが逝った。万感迫るものがある。あの「昭和の大横綱」と呼ばれ,大記録をつぎつぎに打ち立て,日本相撲史に燦然と輝くその名を残した。しかし,運命のいたずらは容赦なし。36歳の若さで脳梗塞で倒れ,左半身が不自由になった。それから必死にリハビリをつづけながら,弟子を育て,日本相撲協会のために全力を投じて,こんにちまで生きてきた。伝え聴くところによれば,四六時中,相撲のことを考えていたという。立派な人であったとしみじみ思う。
昭和35年,16歳で相撲界に入門。わたしは18歳。この同じ年に,体操競技でオリンピックにでたいという夢をいだいて,東京教育大学に進学。わたしは怪我をして,もろくも夢破れてしまう。大鵬は努力一筋,順調に昇進をつづけていった。
もちろん,その当時,納屋幸喜の名前も知らない。納屋という醜名で相撲をとっていたことも知らない。しかし,記録破りのスピード出世をして,十両に昇進したときに「大鵬」という醜名になったニュースは大きく報じられたので記憶している。将来有望な若手力士の登場である。このときから,わたしのなかに「大鵬」という風変わりな力士名とともに,かれの相撲内容が記憶に残るようになる。しかし,そのころの大鵬はまだからだが細くてか弱く見えた。にもかかわらず,いくら攻められても,かんたんには土俵を割らない。そして,いつのまにか自分充分の組み手に持ち込み,じわじわと相手不利の情況をつくり,勝ち星につなげる。いわゆる,理詰めの,負けない相撲,というのがわたしの最初の印象である。
それから,からだができてくると,あれよあれよという間に大鵬は幕内を駆け上がり,柏戸と競り合いながら,ふたり同時に横綱に昇進した。ここから「柏鵬時代」がはじまる。わたしは,どちらかといえば,柏戸が好きだった。自分の相撲の型をはっきりもっていて,その型にはまったら,だれにも負けない,そのわかりやすさが好きだった。相手を真っ正面にとらえて,一気に押し出す,この単純でわかりやすい型が好きだった。そのときの強さは,大鵬といえども,とうにもならなかった。相撲の型をもつ,ということの意味をはじめて知ったのが柏戸の相撲だった。だから,大鵬はこの柏戸の相撲をいかにはぐらかし,自分得意の型に持ち込むかをつねに工夫し,土俵で必死になった。この立ち合い一瞬の攻防を見届けることが,相撲好きのわたしには,なにものにも代えがたい大事な時間となった。
数々の名勝負を,大鵬は柏戸との対戦で残してくれた。のちに,大鵬が書いた自伝を読んで知ったことだが,この二人は大の仲良しだった。柏戸が八百長疑惑に追い込まれて苦しんでいたころ,たまたまタクシーで柏戸と一緒に乗り合わせたときに「つらいだろう」と声をかけたら,柏戸が号泣したという。この話を読んで,わたしももらい泣きをしてしまったことがある。以後,大鵬と柏戸とはだれにも知られることもなく,こころの奥深くで強い絆で結ばれていた,という。こういうピンチに立たされたときの相手の気持ちを思いやるこころを大鵬はもっていた。それが大鵬なのだ。
自己には厳しいが,他者には優しい,これが大きな仕事をなし遂げる人の特性だ。大鵬はその典型的な人だった。だから,現役の力士たちの多くが,連合稽古のときなどに大鵬親方に声をかけられ,大きな勇気をもらったという。相撲は基本が大事だ,と繰り返し教えてもらった人も多い。ことば数の少ない人だったようだが,発することばは多くの人のこころにとどいていた。核心をつくことしか言わなかったという。
納屋少年は,相撲部屋の新弟子になってはじめてラーメンを食べて感動したという。16歳。わたしは,東京にでてきてはじめてラーメンを食べた。18歳。感動した。新宿駅近くのバラック建ての岐阜屋というラーメン屋さんで食べた。これが初体験。15円。公衆電話が一回10円。外食券食堂(米がまだ配給の時代だったので,実家のお米屋さんから外食券をもらってきて,それを店に出すと安くなる)があった時代。まだ,みんな空腹をかかえて生きていた時代の話。
そういう記憶が,大鵬という名とともに思い出される。
「巨人,大鵬,卵焼き」,こどもの好きなものの代名詞。しかし,このころの「卵焼き」は憧れの食べ物であったことを,いまの人たちは知らないだろう。いま,スーパーで売られている卵の値段をみるたびに,わたしは悲しくなる。あまりに安すぎる。わたしの子どものころには家で鶏を飼育していたが,卵は売るためのものであって,食べるためのものではなかった。事実,高く売れた。このお金で,野球のグローブやバットやボールを買った。だから,運動会の日の朝食に,「卵かけご飯」を食べさせてもらえたことが,どれほど嬉しかったことか。
納屋幸喜少年は,わたしなどより,もっともっと苦しい生活を強いられて育っている。詳しいことは省略するが,その苦しい子ども時代にくらべれば,相撲部屋での苦労はなんでもなかった,という。なにより,腹一杯,食べることができたことが嬉しかったという。この空腹を満たすことのできる喜びは,わたしにもわかる。戦時中に焼け出されて疎開していた時代には,学校で昼食時になると家でしてくると言って嘘をつき,実際は昼食抜きだった。食べるものがなかったのである。あのひもじさに比べたら,その後の人生での大抵のことは我慢できた。
大鵬さんの思い出は,どうしても,わたしの過去と重なってくる。同時代を生きた人間としての共感がある。そういう同時代人の英雄が,ひとり,逝ってしまった。寂しいかぎりである。
こころからご冥福を祈り,こころからの哀悼の意を表したいと思う。
大鵬さん,やすらかに。そして,ありがとう。
その大鵬さんが逝った。万感迫るものがある。あの「昭和の大横綱」と呼ばれ,大記録をつぎつぎに打ち立て,日本相撲史に燦然と輝くその名を残した。しかし,運命のいたずらは容赦なし。36歳の若さで脳梗塞で倒れ,左半身が不自由になった。それから必死にリハビリをつづけながら,弟子を育て,日本相撲協会のために全力を投じて,こんにちまで生きてきた。伝え聴くところによれば,四六時中,相撲のことを考えていたという。立派な人であったとしみじみ思う。
昭和35年,16歳で相撲界に入門。わたしは18歳。この同じ年に,体操競技でオリンピックにでたいという夢をいだいて,東京教育大学に進学。わたしは怪我をして,もろくも夢破れてしまう。大鵬は努力一筋,順調に昇進をつづけていった。
もちろん,その当時,納屋幸喜の名前も知らない。納屋という醜名で相撲をとっていたことも知らない。しかし,記録破りのスピード出世をして,十両に昇進したときに「大鵬」という醜名になったニュースは大きく報じられたので記憶している。将来有望な若手力士の登場である。このときから,わたしのなかに「大鵬」という風変わりな力士名とともに,かれの相撲内容が記憶に残るようになる。しかし,そのころの大鵬はまだからだが細くてか弱く見えた。にもかかわらず,いくら攻められても,かんたんには土俵を割らない。そして,いつのまにか自分充分の組み手に持ち込み,じわじわと相手不利の情況をつくり,勝ち星につなげる。いわゆる,理詰めの,負けない相撲,というのがわたしの最初の印象である。
それから,からだができてくると,あれよあれよという間に大鵬は幕内を駆け上がり,柏戸と競り合いながら,ふたり同時に横綱に昇進した。ここから「柏鵬時代」がはじまる。わたしは,どちらかといえば,柏戸が好きだった。自分の相撲の型をはっきりもっていて,その型にはまったら,だれにも負けない,そのわかりやすさが好きだった。相手を真っ正面にとらえて,一気に押し出す,この単純でわかりやすい型が好きだった。そのときの強さは,大鵬といえども,とうにもならなかった。相撲の型をもつ,ということの意味をはじめて知ったのが柏戸の相撲だった。だから,大鵬はこの柏戸の相撲をいかにはぐらかし,自分得意の型に持ち込むかをつねに工夫し,土俵で必死になった。この立ち合い一瞬の攻防を見届けることが,相撲好きのわたしには,なにものにも代えがたい大事な時間となった。
数々の名勝負を,大鵬は柏戸との対戦で残してくれた。のちに,大鵬が書いた自伝を読んで知ったことだが,この二人は大の仲良しだった。柏戸が八百長疑惑に追い込まれて苦しんでいたころ,たまたまタクシーで柏戸と一緒に乗り合わせたときに「つらいだろう」と声をかけたら,柏戸が号泣したという。この話を読んで,わたしももらい泣きをしてしまったことがある。以後,大鵬と柏戸とはだれにも知られることもなく,こころの奥深くで強い絆で結ばれていた,という。こういうピンチに立たされたときの相手の気持ちを思いやるこころを大鵬はもっていた。それが大鵬なのだ。
自己には厳しいが,他者には優しい,これが大きな仕事をなし遂げる人の特性だ。大鵬はその典型的な人だった。だから,現役の力士たちの多くが,連合稽古のときなどに大鵬親方に声をかけられ,大きな勇気をもらったという。相撲は基本が大事だ,と繰り返し教えてもらった人も多い。ことば数の少ない人だったようだが,発することばは多くの人のこころにとどいていた。核心をつくことしか言わなかったという。
納屋少年は,相撲部屋の新弟子になってはじめてラーメンを食べて感動したという。16歳。わたしは,東京にでてきてはじめてラーメンを食べた。18歳。感動した。新宿駅近くのバラック建ての岐阜屋というラーメン屋さんで食べた。これが初体験。15円。公衆電話が一回10円。外食券食堂(米がまだ配給の時代だったので,実家のお米屋さんから外食券をもらってきて,それを店に出すと安くなる)があった時代。まだ,みんな空腹をかかえて生きていた時代の話。
そういう記憶が,大鵬という名とともに思い出される。
「巨人,大鵬,卵焼き」,こどもの好きなものの代名詞。しかし,このころの「卵焼き」は憧れの食べ物であったことを,いまの人たちは知らないだろう。いま,スーパーで売られている卵の値段をみるたびに,わたしは悲しくなる。あまりに安すぎる。わたしの子どものころには家で鶏を飼育していたが,卵は売るためのものであって,食べるためのものではなかった。事実,高く売れた。このお金で,野球のグローブやバットやボールを買った。だから,運動会の日の朝食に,「卵かけご飯」を食べさせてもらえたことが,どれほど嬉しかったことか。
納屋幸喜少年は,わたしなどより,もっともっと苦しい生活を強いられて育っている。詳しいことは省略するが,その苦しい子ども時代にくらべれば,相撲部屋での苦労はなんでもなかった,という。なにより,腹一杯,食べることができたことが嬉しかったという。この空腹を満たすことのできる喜びは,わたしにもわかる。戦時中に焼け出されて疎開していた時代には,学校で昼食時になると家でしてくると言って嘘をつき,実際は昼食抜きだった。食べるものがなかったのである。あのひもじさに比べたら,その後の人生での大抵のことは我慢できた。
大鵬さんの思い出は,どうしても,わたしの過去と重なってくる。同時代を生きた人間としての共感がある。そういう同時代人の英雄が,ひとり,逝ってしまった。寂しいかぎりである。
こころからご冥福を祈り,こころからの哀悼の意を表したいと思う。
大鵬さん,やすらかに。そして,ありがとう。
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